SARSがきっかけで爆発した香港市民の反中感情
今も中国湖北省武漢から発生した、新型コロナウイルスの感染が香港を襲っています。
香港のように、人口が密集し、中国との人的交流が盛んな小さな街では、中国でいったん感染症が起きれば、そのウイルスの流入をコントロールすることは困難です。
香港は1月30日から中国からの人の流入を止める措置をとり、事実上の「境界封鎖」に踏み切りましたが、感染者はその後も増え続けています。2019年の香港デモから2020年の新型コロナウイルスの感染拡大の展開は、2002年から2003年にかけて香港に起きた状況を、逆送りのフィルムで見ているような感じがします。
SARSは、広東省で2002年11月に発生しましたが、中国共産党によって2003年4月まで隠蔽されてきました。
その結果、香港ではメトロポールホテルやクイーンメアリー病院、アモイ・ガーデンズなどで、いくつもの大規模集団感染が起きました。また、国際ハブ空港でもあった香港から感染が世界に飛び火しました。
香港人は、SARSの危機で忘れかけていた中国共産党の隠蔽体質、政治優先や大衆の人命軽視の恐怖を思い出したことでしょう。2003年のSARSの隠蔽がばれたあと、中国共産党はものすごい強権をもって封じ込め作戦を行ったからです。SARSによって香港は一気に反中感情が爆発したのです。
気候の温かくなってきた2003年5月頃には、SARSの流行も収束してくるのですが、中国共産党は、今度は香港の反中感情・嫌中感情を抑え込もうと「国家安全条例」という、反中思想の香港人を政治犯として逮捕できる法律を、強引に当時の董建華(とうけんか)行政長官につくらせようとしました。
これに対し、香港の返還記念日である2003年7月1日、この国家安全条例制定に反対する51万の香港市民が平和デモ行進を行いました。これは香港が中国に返還されて以降、最大規模のデモとなりました。
感染症の取材現場は戦場よりも危険かもしれない
2002年暮れから2003年春にかけて、私は北京のSARS取材の最前線で、白い防護服に身を包み、病院内や隔離施設で回復中の患者の取材なども行いました。
この期間、私自身は感染リスクに晒されながら、情報が隠蔽された恐怖のなかで、目に見えないウイルスという危機を取材対象とすることへのストレスを体感しました。
これはおそらく、銃弾の飛び交う戦場取材と同じくらい、あるいはそれ以上の勇気と危機管理力が求められる取材かもしれません。戦場取材ならばミスは自分の命で贖うことになりますが、感染症取材ではミスをすれば、人の命まで奪うかもしれません。自分が社会の脅威となりうるからです。
今の私には、他の仕事を抱えながら武漢に飛んで、最前線の現場取材をする自信がありません。こういう取材は、組織メディアのバックアップがあって初めて可能なのだと思います。
ですが、SARSの経験などを踏まえると、外から見ているだけでも、武漢で起きている感染症の危うさ、現場の混乱、香港に迫っているリスクの高さなどから、香港人が襲われているパニックを想像できるのです。
2002年から2003年に起きた状況と、2019年から2020年に起きた状況は、感染症と法律制定への反対デモが起きた順番は逆になりますが、その中身は香港の中国共産党への抵抗感や嫌悪感の根源が、中国共産党の政治文化ともいえる情報隠蔽、政治的メンツ優先で庶民の人命軽視、そして法治を巡る問題なのだなと今更ながら気づかされるのです。
※本記事は、福島香織:著『新型コロナ、香港、台湾、世界は習近平を許さない』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。