香港理工大学内で現場取材をしていたボノの証言
以下は、ボノから聞いた話です。
彼は17日昼頃から、香港理工大学内で現場取材をしていました。11月17日午後に大学が警察に包囲され、閉じ込められる形になりました。警察は、17日深夜に装甲車を燃やされたことで、頭にきていた様子だったいいます。その怒りは逮捕者に対する激しい暴行という形で現れ、それは医療ボランティアであろうがセルフメディアであろうが容赦なしでした。
それで彼は、投降呼び掛けには応じず、学内の若者と一緒に脱出を試みることにしました。
理工大学の建物は迷宮に似た構造であり、一本の廊下で校舎と校舎がつながる構造になっていました。その廊下の通行を妨害すれば、警察も絶対に入ってこられないので、上層のプラットフォームにある建築群を若者たちが占拠し、もし警察が突入してきて階段から上がろうとしたとき、上のプラットフォームから物を投げて警察の侵入を阻止しようという作戦を練っていたそうです。
抵抗者たちは、理工大学の裏側に医療ステーションや休息室、記者休息室などを作っており、シャワーは浴びることができたそうです。学内食堂に「抗争食堂」と名前が付けられ、学生たちを応援するためのボランティアコックが、温かい食事を提供してくれていたそうです。
抵抗者たちは交代で「歩哨」に立ち、24時間体制で警察の動きを見張っていました。また、広場で火炎瓶弾やボウガン、さらには数台の巨大ボウガンや投石機などを作り、テスト運転を繰り返して戦いに備えていました。
ですが警察が徹底包囲したあとは、新鮮な食糧が減っていくこともあって、不安になってきました。警察は夜に拡声器で音楽を流し、狙撃手・高圧放水車・装甲車・無数の防暴警察が包囲しているぞ――と訴え、投降するように呼び掛けていました。
当初、なかの若者たちは、民間記者会の呼び掛けで集まった市民たちが、警察の包囲網を突破してきてくれることに期待していたのですが、市民たちも逮捕されるのが怖いものですから、いつまでたっても助けは来ません。
学内には負傷者が多くおり、手当も十分でなかったので、不安感にいたたまれなくなってきていました。18日には完全に士気が落ち、警察の包囲網を突破して脱出しようと試み始めました。
18日の朝に、最初の集団脱走が試みられました。門などからみんなで、一斉に走りだして突破しようという単純なもので、これは外に出た全員が、制圧されて逮捕されたようです。昼にもう一度脱走を試みましたが、100人くらいで一斉に外に出て、5人くらいしか無事逃げおおせることができませんでした。
ボノは脱出場所を間違って、あやうくキャンパスに隣接する解放軍キャンプの敷地に侵入してしまうところだったそうです。
あとで、学内でずっと取材していた著名な戦場カメラマン・宮嶋茂樹さんから聞いたのですが、香港の若者たちは恐怖から一人で行動できず、ついつい群れて行動してしまうため、警察に感づかれて脱出が失敗していたようです。
宮嶋さんのようなプロの戦場カメラマンからみれば、香港警察の包囲網は必ずしも厳密ではなく、外から出入りできる隙はあったとか。
何度か脱走に失敗しているうちに、彼らも大人数で動くことが失敗の原因だと気づき、脱出計画は各小グループに分かれて、独自で脱出ルートを探る形になっていきました。
すると、成功率が上がっていきました。
ある者は、下水道工事の会社のホームページから下水道地図を見つけ出し、学内から学外へ通じる最短の下水道を通って脱出に成功しました。ですが、数人がそのルートを使ったところで、警察側に察知されて封鎖されてしまいました。
別のある者は、陸橋からロープを使って降りる方法を見つけました。ですが、それにはかなりの運動能力や腕力が必要で、途中で落ちて骨折して動けなくなる人もいました。
命懸けの脱出。そのときサーチライトが・・・
ボノは、抵抗者の若者5人とともに脱出を試みました。
夜の闇に紛れて懐中電灯を消し、怯えながらフェンス際を静かに移動しながら、脱出できそうな場所を探しました。貯水槽の上に下水道を見つけたのですが、ものすごい悪臭で、そこから脱出する気にはなれませんでした。
さらに大学の外郭をなぞるように前進していくと、高台の上にフェンスが少し倒れて乗り越えられそうなところを見つけました。見たところ警察の数も多くなさそうでした。安全な場所までは数百メートルの距離だとみて、そこから脱出を試みました。
ですがフェンスを越えると、防暴警察が高所から脱出する者たちの前方を見張っているのが見えました。ボノは、この監視網をくぐって脱出するのは難しいので、無理だと判断して、学内に一度戻った方がいいのではないかと言いました。2人が学校内に戻りましたが、残りの3人は強硬突破すると言いました。
ちょうどそのとき、見張りの警官が別の場所から飛び出た脱出グループを見つけて、拡声器で投降を呼び掛けました。さらに、突然十数名の防暴警察が突進してきて、平衡に催涙弾を撃ち放ったのです。煙幕がもうもうと上がり、混乱状態になりました。
ボノと強硬突破しようとした3人はその隙に、走り出しました。後ろの方で催涙弾の発砲音と罵声を聞きながら、ひたすら走ったといいます。
そのときボノにサーチライトが当たりました。観念して、せめて他の3人をうまく逃がそうと思い、一人で見張りの警官の注意を引くことにしたそうです。大声で「私は日本の記者だ」と叫んで両手を上げました。2人の警官がボノを拘束し、警察の包囲網の防衛線まで連行し、身体検査と尋問が始まりました。
彼は私が渡した『チャンネル桜』の記者証を見せて、もともと学外にいたようなふりをしましたが、警察は、あのフェンスあたりから、よく鼠が出てくるんだよなあ。かわいいよなあ」と笑いました。さらに「お前を逮捕する権利があるんだぞ」と恫喝してきました。
ボノは「私は日本の大手メディアの公認記者だから、逮捕できないはずだ」と言い返しました。
すると警察官らは「いったい誰が、そんなこと言ったのだ?」と聞くので「あなたたち警察が、そのように発表している」と答えました。
最終的に、彼らはボノを釈放してくれました。面倒臭くなったのか、あるいは日本メディアとトラブルになるのが嫌だったのかはわかりません。
警察の防衛線から離れたところで、ボランティア運転手たちが、デモの若者たちを家に送り届けようと待機していました。ボノの知り合いの運転手もいたので、彼の車に乗り込んで、ようやく脱出できたことが実感できたそうです。
脱出したあと、彼は家で熱を出して丸二日寝込んだといいます。
※本記事は、福島香織:著『新型コロナ、香港、台湾、世界は習近平を許さない』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。