こんにちは、獣医師の北澤功です。今回は僕が新人獣医師として動物園に勤務していたころのお話。1匹のチンパンジーと出会い、日々の生活を通して獣医師に必要なことを教えてもらいました。
アニーとの出会いが獣医師人生のスタート
大学を卒業し、新人獣医師として動物園に勤務することになった僕。先輩飼育員の方々に動物園のルール、動物たちの特徴など、さまざまなことを教えてもらいます。
いろいろ聞いていくうちに、その動物園には、アニーというメスのチンパンジーがいることを知りました。
アニーは、母親の育児放棄のため、人間の手によって育てられたためか、チンパンジーの仲間たちにはなかなか馴染めず、自分が人なのかチンパンジーなのかわからない様子。気難しくて寂しがり屋さん。いつも一人でいることが多い女の子でした。
そのアニーを、僕が飼育係として担当することに。当時の僕は「餌をあげて宿舎を掃除すればいいんだろ」と飼育を甘く考えていました。これから想像を絶する過酷な業務が待ち受けているとも知らずに……。
まず、アニーは僕の言うことを全く聞きません。僕からは食べ物を受け取らないし、僕の顔を見ると、両脚で思いっきり地面を強く踏み鳴らし、口を膨らませ咆哮し威嚇してきます。
うって変わって、先輩飼育員に対しては何も言わず、要求されたことに素直に従い、鋭い犬歯の生えた口の中に手を入れることも許していました。
その様子を見て、僕のプライドはズタズタに引き裂かれました。出勤のたびにお腹はきりきりと痛み、体調不良の毎日……。
その間、3か月ほど悩みながらもアニーと接していましたが、僕への対応に全く変化はなし。寝室から展示場への移動すら、先輩にやってもらう状態。僕はただの掃除係。獣医師の仕事は、僕には向かないのではないかと思うほど悩みました。
そんな状況をみかねた先輩から、あるアドバイスをもらいます。それは「アニーへの会話を敬語にしてみれば?」と言うものでした。
僕は藁にもすがる思いで、先輩のアドバイスを実践することに。アニーへの挨拶を「おはよう」から「おはようございます」に変えます。すると、背は向けたままですが、今までとは違い〈オウ オウ オウ〉と声を出して、挨拶?のようなものを返してくれました。
そして「僕はアニーの掃除係でいい、言うことを聞いてもらえなくていい」という謙虚な気持ちで、獣医師としての驕りと「人間の方が偉い」というようなプライドも捨てました。
アニーと僕は対等。いや、アニーに対して畏敬の念をもって接しようと心を入れ替えます。すると、挨拶のほかにもいろいろな変化が目に見えてきました。
体に触れさせてくれるようになり、しばらくすると、布団替わりに使っていた麻袋を持ってきて、僕に渡してくれるまでになりました。やがて、僕の朝の挨拶に対して体を横に揺らしながら〈オウ オウ〉と応えてくれるようになったのです!
僕はとても嬉しくなって、積極的にアニーに話しかけるようになり、朝の挨拶のときに楽しかったことや、仕事の悩みや家族の悩みなどを、彼女に聞いてもらう仲になりました。
アニーは僕に、動物たちへの接し方を教えてくれました。