「うつけ」だった信長を心配した斎藤道三

信長さまが美濃攻めにこだわられたのは、奥方だった帰蝶さまが美濃の国主だった斎藤道三さまの娘だったからでございます。

斎藤道三さまは、山城国山崎(油座があって流通の中心でした)の油売りでございましたが、流れてきた美濃で守護代斎藤氏の家老だった長井氏のもとに入り込み、やがて、長井氏や斎藤氏を乗っ取りました。さらには、守護の土岐氏も追い出して国盗りをしたと江戸時代から伝えられてまいりました。『信長公記』もそれに近い感じに記されてございます。

▲「国盗り物語」も事実と異なる!? イラスト:ウッケツハルコ

しかし、1960年代になって発見された、近江守護の六角承禎さまが、子の義治さまと齋藤義龍さまの娘との結婚に反対して書いた書状の内容から、国盗り物語は道三の父である新左衛門尉と道三父子の物語を、“一人のこと”だと誤解したらしいとわかりました。その後、それを裏付ける資料も出ております。

京都妙覚寺の僧侶であった西村新左衛門尉さまは、還俗して美濃へ至り、長井弥二郎さまに仕えて長井氏を名乗るのを許されました。そのお子の道三さまは、守護土岐氏の跡目争いで土岐頼芸(とき よりあき)さまを支援して活躍し、長井氏を滅ぼし、さらに、守護代斎藤氏の姓を名乗ったのでございました。

しかし、今度は土岐頼芸さまと道三さまの主導権争いが起こり、道三さまの娘と結婚した頼芸さまの弟・頼充さまの謎の死をきっかけに対立が激化したのでございます。頼芸さまは尾張に逃げて織田信秀さまの支援を受けたりもされましたが、天文17年(1548年)に、道三さまと信秀さまが和睦したので、そののちは、諸国を転々とされました。そしてその翌年には、道三さまの娘の帰蝶さまが信長さまのもとに輿入れされたのでございます。

NHKの大河ドラマ『麒麟が来る』では、このあたりの事情についての言い伝えを本当のことのように扱っておりました。

たとえば、帰蝶さまは土岐頼芸の甥である頼充さまの奥方だったのに、道三さまが頼充さまを織田と通じていると疑って殺したとか、道三さまの長男・義龍さまの母親である深芳野さまは、頼芸さまの側室だったのを道三さまがもらい受けたのですが、そのときにすでに身籠っていたという噂があり、義龍さま自身が頼芸の子だと信じていたといったお話でございます。

私にはそんな噂が本当かどうかわかりませんが、藤吉郎に聞いたところでは、あまりありそうでない話だと言っておりました。

また、帰蝶さまの母上は「小見の方」といって、明智光秀さまの叔母さまだという噂もございます。光秀さまが土岐一族の支流でもある明智一族の御出自であるという話は聞きましたが、帰蝶さまの従兄弟といった近い関係だとは聞いておりません。

信長さまの父上でおられる信秀さまが41歳という働き盛りで亡くなられたのは、天文21年(1552年)のことでございますが、信長さまはあいかわらず、奇妙な格好であちこち姿を現したり「うつけぶり」を発揮されておられました。

こうした噂を美濃で心配して聞いていたのが、帰蝶さまの父上でおられる斎藤道三さまでございます。一度、信長さまに会って確かめたいと思い立たれ、尾張北部の富田(現一宮市)の聖徳寺という浄土真宗の寺院まで出向くので、そこで会えないかと言ってこられたのです。天文22年(1553年)のことでございます。

街道沿いの民家から変装して信長さまの様子を見ておられると、茶筅髷で奇妙な風体をした信長さまがやってきたのにもびっくりされましたが、見事な長槍や鉄砲部隊を引き連れていたのにも驚かされたそうでございます。

本日はこのあたりで、ごめんくださいませ。

※ 木曽川では天正14年(1586年)で大きな水害になったので、豊臣秀吉は文禄元年(1592年)から3年かけて境川から南の黒田川に本流を変更するために堤防を築き、国境も現在の愛知、岐阜県境にした。これが「文禄の治水」である。德川家康は尾張を水害から守るために、尾張側を三尺高くしたので美濃は洪水に悩まされることになった。

※ 聖徳寺での斎藤道三と織田信長の会談にまつわるエピソードは、信頼できると言われている太田牛一の『信長公記』に出ているので、まったくの嘘とも思えないが、牛一が見た話でないので、かなりの脚色があるとみるべきだろう。