2020年シーズンは3位になったものの、今年は首位から18.5ゲーム差の5位。与田監督から来年は立浪新監督に代わり、新たな組織づくりをはじめる中日ドラゴンズ。そのドラゴンズにおいて、黄金時代を作り上げたといえるのが、落合博満氏。監督在籍8年間で4度のリーグ優勝を獲得。そのチームのもと、エースとしてドラゴンズを引っ張った吉見一起氏が語る、落合監督から学ぶ強い組織の作り方。

※本記事は、吉見一起:著『中日ドラゴンズ復活論 -竜のエースを背負った男からの提言-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

(写真:中日新聞社)

チームに黄金時代をもたらした落合博満監督

それはプロ3年目の2008年のことでした。西武ドーム(現メットライフドーム)のトレーナールームだったと記憶していますが、落合博満監督から呼ばれて、こう言われました。

「おい吉見、なんでお前をドラフト1位で獲ったか知ってるか?」

プロの世界で、ようやく自分の立ち位置を見つけかけていた時期。当時の記憶を懸命に掘り起こそうとしましたが、僕は素直に「わからないです」と答え、落合監督の言葉の続きを待ちました。すると、静かにこう口を開いたのです。

「ケガしてただろ? あのときは即戦力は狙っていなかったんだ。主力投手は揃っていたからな。そこで、数年後に川上(憲伸)あたりの力が落ちてきたときに、頭角を現す投手を獲ろうとなった。それで、米村が1位で獲ろうと言ってきたのがお前なんだ」

スカウト会議では誰を希望枠で獲得するかで紛糾し、ケンケンガクガクの議論が続いたそうです。そして、落合監督がこう切り出したようなのです。

「来年、こいつ(吉見)はケガが治ったら間違いなく1位なのか?」

この質問に、その場にいたスカウト陣が「間違いなく争奪戦になる」と発言し、それを聞いた落合監督は「それなら今のうちに獲っておけ」と、先物買いで吉見一起の希望枠での獲得を決めたそうです。ドラフトの経緯を僕に教えてくれた落合監督は、さらにこう言葉を続けました。

「アマチュアでリハビリするのか、プロの世界でリハビリするのかは違うだろ? お前を獲った理由はこれだよ」

当時、就任5年目にして、すでに“名称”と呼ばれていた落合監督ですが、現役時代は、ロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)、中日ドラゴンズ、読売ジャイアンツ、日本ハムファイターズと渡り歩き、通算2371安打・510本塁打・1564打点を記録。3度の三冠王に輝いた実績は、最強スラッガーというほかありません。

野球界には「名選手名監督にあらず」という言葉がありますが、落合監督は数少ない例外の中のひとりであることにも、異論の余地はないでしょう。

2004年に中日ドラゴンズの監督に就任すると、すぐさま「補強はいらない。現有戦力を10パーセント底上げできれば勝てる」と話し、有言実行のリーグ優勝。その後も、監督生活8年間で半分にあたる4度のリーグ優勝を飾った名将です。

僕はというと、落合監督とそう何度も会話を交わしたわけではありません。ただポツッ、ポツッと、ここぞというタイミングで言葉を投げかけられました。「何を不安そうに投げてんだ?」少し達観したような、あの独特の言い方で諭すように伝えてきます。そんな落合監督とのやり取りで、最初に心に刻む出来事があったのが2010年です。

プロ3年目の2008年に初の二桁勝利。そして翌09年には16勝を挙げ、最多勝のタイトルも手にしました。この成績をもってメディアからは「竜の新エース」と、もてはやされたものです。

そして迎えた2010年シーズン。落合監督が「2年ぐらい勝ったくらいでエースって言うなよ」とコメントしているのを新聞で目にしたんです。僕の正直な感想は「そうだよな」。エースの意識が薄かった僕は、ある意味で落合監督の言葉に納得していました。

▲落合監督のもとで中日ドラゴンズは黄金時代を迎えた 写真:中日新聞社

落合監督が僕に求めた本当のエース像

その直後だったと思います。場所はナゴヤドームにある食事サロン。そこで落合監督は、いつもの定位置にいました。僕が食事を取りにいった際に「吉見~」とフイに呼ばれたんです。「はい」と硬直して返事した僕に、落合監督はこう言葉を紡いだのです。

「5年な」

たったひとことだけです。僕は、この5年という意味をじっと噛みしめました。おそらく想像するに、落合監督が言いたかった趣旨はこういうことだと思います。

「2年連続二桁勝利で甘んじるのではなく、5年連続二桁勝利してこそ、本物のエースだからな」

そう理解すると、僕のモチベーションは一気に上がりました。たったひとこと「5年な」でしたが「落合監督に認めてもらう投手に、いやエースになるしかない」という強い決意を固めた瞬間でした。人によっては、たったひとことで言い放つそのスタンスに、冷たい人間だと受け取る人がいるかもしれません。

ただ、僕は「愛情があるな」と思いました。落合監督は、さらなる向上心を持たせるために言ってくれたんだ、と肌で感じ取ったのです。

「あと3年か。よし頑張ろう」

実際に2012年までなんとか二桁勝利を達成。「5年な」という落合監督のたったひとことを胸に刻んで突っ走り、すでに2012年シーズンは落合政権ではありませんでしたが、監督との“約束”を果たせたことに安堵したことは確かです。

落合監督との会話が脳裏に焼きついたゲームもあります。それは、2011年8月5日にナゴヤドームで行われた横浜ベイスターズ戦でした。結果を先に書くと、9イニングで148球を投げ被安打9の3失点で完投こそしましたが、2ー3で負け投手となりました。

その3点を失ったのは、スコアレスで迎えた5回です。4回までは1安打投球で、投球の調子そのものも悪くありませんでした。

ただ、5回は連打を浴びて無死一、三塁のピンチを迎えると、1死後、8番の細山田武史選手に左前適時打を浴び先取点を奪われました。

僕は次の打者が投手の状況でも冷静になれず、とにかく無失点で切り抜けることだけに意識を持っていかれていたのでしょう。2死後にさらに連打を浴びて、このイニング一挙に3点を献上。その後、打線が2点を奪ってくれましたが、このイニングの失点が致命的となり、シーズンの3敗目を喫しました。

その試合後です。落合監督と短い会話をしました。

落合監督「吉見、お前あそこで1点を惜しんだろ?」

吉見「はい」

落合監督「1点を惜しんで3点与えたわけだ。おい、野球はそんなに甘くねえぞ」

吉見「……はい」

敗戦の要因を落合監督にズバリと指摘されたことで、僕の中で何かが変わったのを鮮明に覚えています。野球に対して、試合の流れに対して「常に冷静に対処できる自分を持て」という感じでしょうか。

この試合の前までの自分は、完全試合→ノーヒットノーラン→完封→完投というように、常に投球に対して完璧を求める思考回路でした。それが、この試合を皮切りに、勝つためのポイントや流れを失わない大事な局面が読めるようになっていったのです。

自分の野球観を確立する、まさにターニングポイントとなったひとこと。落合監督との会話を経て、その後の8月13日の横浜ベイスターズ戦から、シーズン最後の登板となる10月13日のヤクルトスワローズ戦まで、引き分け1試合を挟んで、負けなしの9連勝を飾ることができました。

結果、この2011年シーズンは、26試合に登板して18勝3敗の防御率1.65。最多勝と最優秀防御率のタイトルを獲得できたことも、8月5日の登板と、落合監督のひとことがあったからこそだと思っています。