皆さんは「LCA」という新しい環境基準のことをご存知でしょうか。これはライフ・サイクル・アセスメント(Life Cycle Assessment)といって、製品やサービスのライフサイクル全体の環境影響評価の手法であり、いまEUが率先して実現しようとしているものです。
ライフサイクル全体とは「資源採取―原料生産―製品生産―流通・消費―廃棄・リサイクル」までを指すもので、クルマでいえば、走ってる間だけの排気ガスのことだけではなく、材料の輸送―工場の環境―発電方法―ユーザーの使用環境―廃棄まで、すべてトータルでCO2を削減していこう、という考え方です。
このLCAが有効になると、日本は大変な不利を被ります。なぜならば、日本の発電はCO2を排出する石炭火力などの化石燃料の発電方式が中心で、再生可能エネルギーの割合が低いからです。電力の問題は、製造業のメーカーには対応しようもなく、国の政策にかかってきます。国の政策とは国民の総意であり、一部の政治家が勝手に決めることではありません。LCA規制とは、まさに「EUの罠」とも言えるでしょう。
日本経済と自動車のスペシャリストである、加藤康子氏(元閣官房参与)、池田直渡氏(自動車経済評論家)、岡崎五朗氏(モータージャーナリスト)の3人が、EVの裏でうごめく国や利権の争いを紐解きます。
※本記事は、加藤康子×池田直渡×岡崎五朗:著『EV推進の罠 「脱炭素」政策の嘘』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
豊田社長「日本の製造業は海外へ出て行かざるを得ない」
加藤 LCAに関しては、トヨタの豊田社長も危機感をあらわにしています。豊田社長は、まずLCAが適用されると、材料から部品、車両製造から廃棄まで、全ての過程でCO2排出量をカウントするようになる。そうすると同じクルマでも“作る国のエネルギーのありかた”で、LCAの値が変わってきてしまう……と仰っています。
池田 そうです。発電でいかにCO2を出さないかが重要になってきます。
加藤 現在、日本の自動車の国内生産は約1,000万台で、その半分に近い482万台が輸出されています(2019年)。今後、日本の電源構成があまり変わらないなかで、LCAの基準を満たそうとすると、この輸出分の生産が再エネ導入の進んでいる国や地域へシフトする、つまり、日本から工場が出て行ってしまうということになりませんか?
岡崎 そうです。これまで日本の製造業は、より“安い労働力”を求めて、中国やベトナムをはじめとする人件費の安い国々に工場を移していきました。今後、LCAに基づいて、“低炭素な国に製造業、工場が移っていく”という流れになったら、トヨタだってそうせざるを得ない。豊田社長はそう仰っているわけです。
加藤 それは日本の経済や雇用にとって、ものすごい打撃ですね。
池田 このLCAの問題は、トヨタだけに限った話ではありません。日本の全製造業に関わるものです。このままだと輸出をしている全ての製造業が、日本でものづくりができなくなります。国内消費するのであれば、関税はかからないのでそれほど問題はないのですが、海外への輸出品は全部、莫大な関税の餌食になって競争力を失ってしまうわけです。
加藤 EUだけが得をするこんなゲーム理論が、世界で通用するんでしょうか?
岡崎 EUほど極端ではないけれど、アメリカのバイデン大統領もそっちの方向ですよ。
加藤 でも、アメリカの場合、電源構成を見る限り決して有利ではありませんし(※天然ガス、石炭発電が多い)、原発も縮小傾向です。運輸省長官(ピーター・ブティジェッジ氏)の記者会見や関係者のコメントも読みましたけど、長官は、バイデン政権がカリフォルニア州の脱炭素的な政策を支持、関与しているかについては言葉を濁していました。
それに、今は国民からものすごい反発を受けているじゃないですか。米上院では、自動車部品産業の人たちが「このまま脱炭素政策を進めたら3分の1の人々が職を失う」と主張していましたね。
岡崎 日本でも「100万人が雇用を失う」と、豊田社長も仰っています。
池田 アメリカは今や世界第一の産油国ですからね。天然ガスも世界一です。LCAはアメリカさえも標的にしているともいえそうです。
LCAで失われる日本の雇用1,000万人
加藤 豊田社長は、このLCAの影響で、日本でのものづくりができなくなる可能性について強調されています。もちろん、自動車業界だけでなく、日本の経済全体にとっても大変な危機的状況です。
日本の自動車は、これまでの20年間で、走行時のCO2を22%も削減してきました。ほかの国のメーカーよりも、環境に厳しく向き合ってきたのにもかかわらず……なぜ日本でものづくりができなくなるのか! そんな理不尽な話はないと、憤りをあらわにしています。
池田 僕らもまったく同感です。
加藤 この脱炭素の問題は、大きな雇用問題でもあります。550万人の人々が今の自動車産業で働いていて、そこから100万人もの人たちの仕事が失われる可能性がある。国内で生産して輸出の割合が多い、マツダとかスバルのような最高のクオリティのクルマを作るメーカーが……日本で地場産業として地域を支えている歴史と伝統のある企業が、国内で製造ができなくなる。そんな事態が起こるかもしれないということですね?
岡崎 政府〔※鼎談当時は菅政権〕の動きを見ていると、それもやむなしと思っているんじゃないですか……?
池田 EUが言い出したLCAが、アメリカなどに否定される……という望みがあるのならいいんですよ。だけど、今やっぱり僕らの身の回りの自動車メーカーの人たち、もしくは同業者と話をしていると、LCAはまず九分九厘来ると思っている人が多いです。「来るかもしれない」というより「来るに違いない」という感触です。だから、豊田社長はこれだけの危機感を持ってスピーチしているわけですよ。
加藤 自動車産業に従事している550万人には、家族もいます。単に雇用の喪失になるだけではなくて、自動車に関連する産業や製造業なども合わせて、日本のGDPの25%をゴッソリ失うことにもなりかねないのです。この製造業を大切にしない今の日本の方向性って、いったいどうなっているんでしょう?
岡崎 自動車産業だけじゃなく、日本の製造業で働く人全てが対象ですからね。
池田 だから、LCA問題の影響を受けるのは550万人だけじゃない。1,000万人……いや、何千万人の単位ですよ。
加藤 もはや日本経済が成り立たない。
池田 何千万人の失業者がいる国というのは、国として成立し得るのか?
加藤 本当に恐ろしいですね。日本の経済を牽引する自動車産業が、日本から出て行く……身の毛もよだつ話じゃないですか。
岡崎 こういう話をすると「まさか、そんなことになるわけない」って思う方がきっと多いと思います。でも、実際にこれが十分起こりうるシナリオになっているということが、実に恐い話なんですよ。
池田 そうです。だから、僕らはこれだけ危機感を持って「そんなことになったらどうするんだ」と何度も言っているわけです。それに対抗するには、とにかく急いで日本の電源をEUの上位国並みにするしかないわけだけど、日本の政治サイドは全然それをやろうとしない。
岡崎 正面から向き合おうとしないんですね。