歌舞伎の裏で行われていた売春

室町時代に庶民にまで男色文化が降りた要因となったのが、猿楽という芸能でした。江戸では庶民文化が花咲きます。

1603年、つまり徳川家康が江戸に幕府を開いた年に、京都の五条大橋のたもとで始まったのが、出雲阿国の阿国歌舞伎でした。阿国歌舞伎は、女性が男装し男性が女装する形態の芝居で、さらに男女逆転させたエロ芝居だったことで、人気を博しました。

▲出雲阿国(京都国立博物館収蔵『阿國歌舞伎圖屏風』) 出典:ウィキメディア・コモンズ

この阿国歌舞伎に便乗して始まったのが、遊女たちによる遊女歌舞伎(女歌舞伎)です。遊女歌舞伎は、遊女屋お抱えの遊女を舞台に立たせるので、男女混交の阿国歌舞伎と違って、すべて女性だけで遊女が男装しました。言わば「元祖タカラヅカ」です。

さらに、それに便乗して少年(若衆)だけの若衆歌舞伎も生まれました。こちらは当然すべて男性だけです。ただし、当初は遊女歌舞伎の方が人気は高く、若衆歌舞伎の方はそれほどでもありませんでした。

阿国歌舞伎と遊女歌舞伎の裏で行われていたのは売春でした。当然、遊女歌舞伎の売春は女性だけですが、阿国歌舞伎は男女共に売春をしていました。

ちなみに、家康の次男の結城秀康も阿国歌舞伎を見て「阿国は女性で天下を取ったが、オレは天下を取れなかったのは無念!」と、弟の徳川秀忠が二代将軍になったのに自分がなれなかったことと掛けて嘆いています。

さらに、秀康が梅毒に罹って鼻が欠けていたのも阿国歌舞伎の一座からうつされたという話もあります。それはともかく、こうした風紀の乱れを憂慮した幕府によって、1629年、阿国歌舞伎と遊女歌舞伎は禁止されました。

ここで台頭するのが若衆歌舞伎なのです。ですから、この時点までの人気は遊女歌舞伎にあったわけで、いくら男色文化が庶民に降りてきたといっても、売春相手はやはり女性の需要が多かったことになります。

しかし、ここにおいて歌舞伎は、男のみの若衆歌舞伎だけになったのです。当然、彼らも売春をしていますから、歌舞伎の舞台は、そのまま遊廓で言うところの張見世の役目を果たすことになりました。そして、貫肉する者や小指を舞台に投げつける者まで現れ、さらにはお寺の日用品を質に入れて没落するお坊さんまでいました。

オトコの前髪は若さと美のシンボルだった

こうして結局、若衆歌舞伎だけにしても風紀が乱れたので、幕府は1652年に若衆歌舞伎の止を通達し、同時に役者の前髪を禁止しました。

なぜ前髪を禁止するのかと言うと、前髪が若さと美のシンボルであり、セックスシンボルだったからです。『男色大鑑』にも、年老いても前髪を剃らない若衆の話があるくらいです。つまり、幕府とすれば前髪を禁止するのは、歌舞伎の売春を防止しようという意図があったということになります。

若衆歌舞伎を禁止するということは、すでに歌舞伎小屋を持つ興行主たちにとっては死活問題です。そこで彼らは幕府に陳情し、幕府も狂言だけを上演すること(物真似狂言尽くし)を条件に、歌舞伎の再興を許可しました。

幕府はセックスシンボルとしての前髪を許しませんから、前髪を剃った役者のみが舞台に立つ野郎歌舞伎が生まれ、これが現在の歌舞伎のルーツとなります。

ちなみに、歌舞伎の女形が頭に紫頭巾を被っているのは、この時の前髪を剃ったことの苦肉の策として生まれたもので、紫帽子や野郎帽子などと呼ばれました。

歌舞伎役者でも、舞台に立たなければ前髪を剃る必要はありませんでした。そうした舞台に立たない役者のことを陰間(かげま)と呼び、歌舞伎小屋と連接されていたのが茶屋でした。その茶屋のことを陰間茶屋と呼び、ここにおいて芸能としての歌舞伎と、売春のための陰間茶屋が徐々に分離し、独立していくようになります。

▲男性客(左)の背後で女中(右)と接吻をする紫帽子を被った色若衆(中央)。京の宮川町の陰間茶屋にて(西川祐信作/1716年〜1735年頃) 出典:ウィキメディア・コモンズ

その後、陰間茶屋は江戸のみならず、関西では若衆茶屋、名古屋では野郎宿などと名称を変えながら全国に拡がり、幕府の取り締まりや経済政策による浮き沈みはありながらも、田沼意次の時代には最盛期を迎え、水野忠邦の天保の改革で大打撃を受けたあとも、寺社の援護もあり、江戸幕府の終焉まで続くこととなりました。