死ぬほど退屈な仕事とイケイケのプライベート

短い大学と書くように、短大の2年間はあっという間だった。卒業すると同時に実家に戻り、ごく普通の会社に就職し、サラリーマンの道へ進んだ。

就職先は、建築の仮設資材を製造販売する会社。子どもの頃からお世話になっていた、母方の知り合いのおじさんの紹介で就職が決まった。

どうしてもやりたい仕事ではなかったが、特にやりたいことがあったわけでもなかったし、コネで入れるなら楽でいいと思っていた。

本社は大阪の心斎橋にあったが、最初の研修は石川県能登半島にある工場で、配属されたのは実家からも比較的通いやすい横浜の綱島にある支店。

最初に覚えた仕事は単純な倉庫作業だった。建築の仮設資材として使うネットやメッシュシートに親綱、商品の名前、寸法を頭に叩き込まれ、それをトラックに積み込んだ。夕方になると、現場から回収されてきた資材を倉庫に戻す日々。

倉庫の仕事を一通り覚えた同期たちは、配送トラックの運転手や、営業に配属されていった。

月曜から土曜まで、与えられた業務をきっちりこなして、自宅に帰ったらテレビを見て寝るだけの生活。月曜になったら、また満員電車に揺られて出勤、それの繰り返し。つまらない仕事を一生続けるのかと、ため息ばかりついていた。 

だから、週末はとことん遊び回った。自慢の改造車で大黒ふ頭に行ったり、山下公園でナンパしたりクラブ行ったり。それだけが人生の生き甲斐だった。

▲マーバンに乗ってとことん遊んだ

サラリーマンになってローンで買った車は、当時流行っていた中古のマークIIのバン、通称マーバンだった。

当時、マーバンはナンパなイメージが強く、VIPカーなどのヤン車からは舐められがちだったが、マークIIのバンを買ったのには理由があった。短大時代に死んだ親友が大切に乗っていたのが、マーバンだったのだ。

その親友とは入学後すぐに仲良くなり、彼の地元の富山県名物・ブラックラーメンを食べにマーバンで向かった。高山の街で女の子をナンパするのも、いつもマーバンだった。躰道の全日本選手権が東京であると聞くと「俺が送って行ってやるよ」と運転手を買って出てくれた。

短大時代に付き合っていた彼女にフラれたときに、「忘れよう!」と夜中にドライブに連れて行ってくれたのも彼だった。俺の思い出の中にはいつもマーバンがあった。

彼を不慮の事故で亡くしたときはパニックになり、夜中の深夜3時に実家の母親に泣きながら電話したのを今でも覚えている。

だから俺は、車を買うならマーバンにしようと決めていた。中古で見つけた車を100万で買い、重低音を出すウーハーも100万くらいかけて揃え、シャコタンにして、さらにマフラー切って直管で乗り回した。

そんな粋がった車で町田や横浜に行ったら、まぁ絡まれる。無視をするのが一番だが、しつこい相手は別だ。だてに武道をやっていたわけではなく、相手を返り討ちにしたこともあった。マーバンに乗っていれば怖いもんなんて何もなかった。