挙兵すべきか悩んだ頼朝が決断した背景
1180年4月27日に以仁王の令旨に接しながら、頼朝の反応は極めて鈍いものでした。頼朝の身辺が慌ただしくなるのは、以仁王と源頼政・仲綱父子が敗死してから、しばらくあとのことです。
頼朝は、都に三善康信という情報提供者を有していました。母の姉が頼朝の乳母の一人であった縁から、康信は10日に1度、毎月3回使者を送って、洛中の情報を伝えていたのですが、今回は使用人ではなく、弟の康清を使いに立ててきたので、ただ事でないことは明らかです。案の定、康清の口から伝えられた康信の考えは穏やかなものではありませんでした。
「以仁王の令旨を受けた源氏は、すべて追討せよという命令が出されています。あなた様は源氏の正統ですから、特に御注意が必要です。早く奥州のほうにお逃げください」
ここに出てくる奥州とは、現在の東北地方のことです。藤原秀衡という人物が朝廷への納税を続けながら、半独立状態を維持しており、平氏政権も手を出せずにいたのです。
『吾妻鏡』によれば、頼朝が三善康信からの情報に接したのは6月19日のことです。同じく『吾妻鏡』によれば、頼朝が具体的な反応を示したのは同月24日のことで、側近の安達盛長と中原光家を使者に立て、源氏累代の家人に呼びかけを始めさせています。
頼朝はどう対処すべきか5日間も悩み続けたのでしょうか。それとも、追って新たな動きがあったのか。
どちらとも断言できませんが、時期的にみて、伊豆国の人事異動が関係していたのかもしれません。源頼政・仲綱父子に代わり、伊豆国知行国主に平時忠(清盛の正室の兄)、受領に時兼(時忠の子)が任じられ、頼朝と同じく流人であった平兼隆が目代に指名されたのです。
知行国主とは一国の収益を得る権利と、国守の推挙権を持つ高等地方官で、受領は国司官長の別称です。京都から地方に派遣されるのは上から守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)の四等官まででしたが、時忠・時兼のような清盛に極めて近い大物が地方に赴任することはありませんから、現地での一切は代官である目代に託されることになります。
目代に指名された兼隆は、洛中の治安に責任を負う検非違使の経験者でしたから、かなり腕が立ち、流刑にされたくらいなので、性格も荒々しかったはずです。
伊豆では、蛭ケ島を眼下に眺める韮山山中の山木という所に館を構えていました。
『吾妻鏡』の8月2日の条には「相模国の住人、大庭三郎景親をはじめ、去る五月の合戦のために在京している東国の武士たちが多く帰国した」との記述があります。
「去る五月の合戦」とは、以仁王と源頼政、及びそれに加担した園城寺衆徒の討伐を指しており、都周辺の情勢が落ち着いたので、東国の武士に帰国が許されたわけですが、彼らには東国で存命の源有綱(頼政の孫)を討伐するよう命令が下されていたらしく、頼朝が自分も討たれるのではないかと不安になってもおかしくない状況でした。
しかし、『吾妻鏡』は北条氏による執権体制の正統化を意図して編纂されたものです。北条一族の全面協力のもと行われた源頼朝の旗揚げも、正当防衛として描く必要がありました。そのため旗揚げに至るまでの事情について、『吾妻鏡』にある内容を全面的に信用するわけにはいきません。
身に危険が迫ったのでやむなく挙兵したのか、ただの口実にすぎなかったのかの判断は、なんとも難しいところですが、近年の研究では、一時は虚構と見なされていた後白河院の密旨が再注目されています。
占いで決めた頼朝挙兵の日時
後白河院は天皇の上、複数いる院のなかでもトップに立つ「治天の君」ですから、その命令書の重みは以仁王の令旨とは比較になりません。密旨が本当に発せられていたのであれば、頼朝はどんなに無謀と思えても実行しなくてはならない状況に立たされたことになります。
『吾妻鏡』によれば、頼朝が旗揚げの血祭りに選んだのは山木館の平兼隆で、8月6日には卜筮(ぼくぜい)により、17日寅卯の刻(午前5時)を決行の日時と定めます。
ここにある「卜筮」とは占いのことで、卜占(ぼくせん)に同じです。どのような占いが行われたかは定かでありませんが、実施を命じられたのは藤原邦通と佐伯昌長の二人です。
藤原邦通は京下りの下級貴族で、大和判官代と呼ばれていたから、大和国の国衙領か荘園で年貢の徴収をしていたことがあるのでしょう。頼朝の命で平兼隆に近づき、完璧な地形図を仕上げていますから、人の心をつかむ術と絵画の才に秀でていたことがうかがえますが、少なくとも占いのプロではありません。
一方の佐伯昌長は、筑前国住吉神社の神官で、頼朝と同じく配流の身として伊豆国にいました。神官であればなんらかの占いに通じていたとしてもおかしくはなく、おそらく当日の卜筮は昌長が主で、邦通は介添えに過ぎなかったと思われます。
これまた断定はできませんが、頼朝が貴族社会の先例に倣ったとするなら、陰陽道に基づく占い=六壬式占(りくじんしきせん)の可能性が高いと言えます。
大事なことを占いで決める。
現代人は非科学的として退けるでしょうが、中世の人々にしてみれば、極めて合理的な選択でした。話し合いでは永遠に決まらない案件、全会一致を得られない案件を、神の意志あるいは運に委ねるというのは、角(かど)を立てることなく場を収めるに賢明な方策だったのです。
8月17日の山木館襲撃は成功し、頼朝軍は兼隆を討ち取ることができました。従った武士たちには、天曹地府祭の効験と思えたかもしれません。しかし、平氏家人の大庭景親と伊東祐親に挟撃された同月24日の石橋山の戦いでは大敗北を喫し、多くの将兵を失ったうえ、深い山中を逃げまわる羽目となります。
現在の神奈川県湯河原町には「しとどの窟(いわや)」呼ばれる巌窟があり、頼朝主従が一時身を潜めた場所と伝えられます。
『吾妻鏡』によれば、このとき頼朝は髻(もとどり)のなかに納めていた正観音像を取り出し「自分の首と一緒にこの本尊が敵の手に渡れば、源氏の大将軍のすることではないと、後々まで非難されるだろう」と言って、その場に放置していくことにしました。
正観音像の正観音とは、十一面観音や千手観音のような多面多臂ではない通形の観世音菩薩のことで、聖観音とも呼ばれます。
元来は、生き物が生死を繰り返す6つの世界=六道のひとつで地獄を受け持つ菩薩で、鎮護国家や招富、除災などの現世利益を期待されましたが、10世紀頃から来世的色彩をも帯び始め、現世と来世の利益を兼ねることとなります。
観音信仰の流行とともに霊場の数も増え、33種の変化身があるというので、1161年には西国観音霊場三十三所が成立。法華経の信仰が読経や写経の形式をとったのに対し、観音信仰では観音像の保持や巡礼などの行為が、信仰の証となっていました。
頼朝の観音信仰も生半可でなく、大事な旗揚げにも影響しました。予定していたほどの兵が集まらず、延期を選択肢に入れねばならなくなったとき、19日では事が露顕してしまうに違いなく、そうかと言って18日もありえませんでした。
頼朝は幼少時から、毎月18日を不殺生の日と定めていたからです。御仏に誓ったことは、どんな状況にあっても破るわけにはいかず、かくして旗揚げは予定通りの日時に決行されたのです。