川尻が見た野村克也、星野仙一の素顔

選手の意識を変える、というと、1999年から阪神の監督に就任した野村克也。前年までヤクルトの監督だった野村を引き抜いて、阪神の監督に据えたのは、当時大きな話題となり、ダメ虎と揶揄された阪神タイガースが変わった大きなきっかけとなった。

「やっぱり実績もあるし、素晴らしい監督だったよね。正直、野村さんが来るまで本当に弱かったし、もう4月くらいの時点で“あ、今年も優勝は無理だな”ってみんな思ってたから。だから、今のタイガースの選手たちが優勝争いをしてるのを見ると、羨ましいなって思うよ。他の人がどうだったかわからないけど、やっぱり負けるのは悔しかったし、シーズン序盤にはチームのことより個人成績のことばかりになってたから」

野村克也を招聘した1999年から2001年は3年連続最下位。しかし、華はあるが波があった新庄を4番に据え、若手を積極的に登用するなど、その後のタイガースの礎を作ったのは間違いない。

「結局は最下位になっちゃったけど、99年も一瞬首位に立ったし、それまでみたいなヨーイ、ドン!からもうダメだ、みたいなのはなくなったね。あと野村さんは茶髪とヒゲが本当に嫌いで、当時調子が悪くて2軍にいたんだけど、コーチから“ヒゲ剃ったらすぐに1軍に上げてやる”って言われて、俺も腹立ったからそのままにしてて(笑)」

その後、1軍に上がることになったが、ノムさんはすぐに川尻さんを見つけ、声をかけてきた。

「“おい、ヒゲどうなっとるんや”って。俺も“じゃあ新庄は茶髪ですけど、あれは良いんですか?”って言い返したら、野村さんが“うーん”って何も言えなくなっちゃって(笑)。結局、松井(優典)ヘッドコーチから“頼むから剃ってくれ!”って言われて、渋々剃ったんだけど、野村さんは新庄のこと本当にすごく可愛がってたし、認めていたよね」

ノムさんと新庄といえば、1年目のキャンプでノムさんの提案から新庄が投手に挑戦したのも大きなニュースとなった。今でこそ大谷翔平の二刀流が大きな話題となっているが、新庄は元祖二刀流だった。

「ブルペンで見てて、全然投手のフォームじゃないんだけどすごい球がいってて、もしかしたら中継ぎとか抑えだったらいけるかも、と思ってた」

しかし、二刀流挑戦は新庄が膝を痛めたことにより幻となる。

「あれも、あとから聞いたら“怪我したからやめたんじゃないんです、投手に飽きちゃって”って(笑)。新庄らしいよね」

▲使われなかった時代の話になると顔が険しくなる

2002年からは闘将と呼ばれる星野仙一を招聘。2期続けて外様の名将を招聘し、タイガースは変革しようとしていた。

「やっぱり人間的な魅力がスゴかったな。野村さんも本当に野球のことを良くわかっていたし、素晴らしいところもたくさんあったんだけど、前に話した藤田(平)さんみたいに不器用な人だったから、じゃあ果たして野村監督を絶対に胴上げしたか選手がどれだけいたか、って話なんだよね。その点、星野さんを胴上げしたいって人は当時の阪神にたくさんいたと思う」

実はここにもこぼれ話がある。ノーヒットノーランを達成したとき、相手チームの監督は星野仙一。試合中、ヒットかファーストのエラーかで微妙なタイミングがあった。その時、星野は相手チームにも関わらず「今のはヒットやない! エラーや!」と叫んだという。

「それを後々、ドラゴンズの選手から聞いてうれしかったな。相手チームの監督としてよりも、投手としての星野仙一が勝つってすごく良いよね」

星野監督のもと、大幅に補強し、血の入れ替えを敢行した阪神タイガースは2003年に優勝を果たした。しかし、川尻さんはその年、満足のいく成績を残せず、2軍にいる日々が続いた。

「さっきも言ったけど、どんなに人間性が合わなくても、やっぱり使ってくれる監督とチームのことを好きになるし、2軍でどれだけいい結果残しても、上げてもらえなかったらモチベーションは下がっていくよね。優勝決定間近のとき、これまでの功労者ってことで1軍に上がってもいいよって言われたんだけど、でもその年は全然貢献してないし、“大丈夫です”って断っちゃった。リーグ優勝の瞬間はテレビで見たね」

その年のオフ、前川勝彦との交換トレードで大阪近鉄バファローズに移籍する。

「これも最初は戦力外通告だったんだよ。“来年からいりません”って言われて、俺が“ここまで頑張って、その仕打ちはさすがに酷いんじゃないか”って言って、その場は終わって。そしたら、そのあと近鉄の関係者の人に喫茶店に呼ばれて、“やる気はあるのか?”とか“年俸はいくら出てる?”とかいろいろ聞かれて、その後トレードって形になったんだよね。阪神が引き取り手を探してくれたのかもしれないし、裏では決まってたのかもしれないし、そこは未だによくわからないね」