日本軍最大の勝利と「残念」な武装解除
大本営の命令に従えば、18日の午後4時には完全に戦闘をやめなければなりませんでした。しかし、そうすれば、侵攻してくるソ連軍に蹂躙(じゅうりん)されてしまいます。
午後4時までの自衛戦争は許されていました。午後4時を過ぎれば、自衛であっても戦ってはいけません。そのことを留意したうえで、樋口中将は第九一師団の堤不夾貴師団長に「断乎反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」と打電して命じたのです。大本営にはお伺いを立てず、独断でした。
当時のことを樋口中将は、「この戦闘を『自衛行動』すなわち『自衛のための戦闘』と認めた」と振り返っています。なぜなら、「すでに終戦の詔書が下り、私(樋口)には完全なる統帥権が無かった。しかし、自衛権の発動に関し堤師団長に要求したところ、彼等は勇敢にこの自衛戦闘を闘った」のです。
樋口中将が大本営の停戦命令を無視して、ソ連軍に対して独断で自衛戦争を指揮したのは、陸軍随一の対露情報士官として、ソ連の“野望”を見抜いていたからにほかなりません。
8月18日未明、大挙上陸して来たソ連軍に対して、占守島守備隊が自衛のために防戦し、激しい戦闘となりました。
守備隊は大小80門以上の火砲と戦車85輌を、ソ連軍が上陸する波打ち際に集め、濃霧で上陸に手間取っていたソ連軍を集中して叩きました。その作戦が奏功し、ソ連軍は戦死傷者3000人以上という大損害を被りました。これは満州、樺太を含めた対ソ連戦では、日本軍最大の勝利です。
樋口中将も「この戦いはみごとであった。いま一歩にて敵を水際に圧迫し、小ダンケルクを顕したのであった」と評価しています[『陸軍中将 樋口季一郎の遺訓』(勉誠出版)より]。
また、ソ連の日刊機関紙『イズベスチヤ』は「占守島の戦いは、満洲、朝鮮における戦闘より、はるかに損害は甚大であった。8月19日はソ連人民の悲しみの日である」と述べています。
しかし、日本軍が戦闘停止期限の午後4時に攻撃の手を緩めたことで、ソ連軍は形勢を挽回します。現地の日本軍は18日午後4時を迎え、優勢のまま、積極的戦闘を停止しました。
ところが、戦いをやめると思っていたソ連軍が攻撃を続けたため、実際の戦闘は続いたのです。停戦交渉を試みたものの、ソ連側には停戦の意志はありませんでした。樋口中将もすでに大本営を通じて、マッカーサー連合国軍最高司令官に対し、ソ連軍の不当な侵略について厳重抗議を行っていましたが、ソ連軍はそれを無視したのです。
双方の記録では、日本軍が600~1000人、ソ連軍が1500~3000人の死傷者を出す激戦が続きました。停戦交渉はなかなか結実せず、散発的な戦闘が続き、最終的に停戦が合意したのは21日夜でした。
日本軍は終始優勢を保ちましたが、最後は停戦協定によって武装解除に応じました。22日に行う予定の武装解除は、1日延びて23日から行われました。降伏した日本軍兵士約1000人は全員、シベリアに抑留され、多くがそこで命を落としました。
樋口中将は「日本軍最後の戦史が、不徹底の『戦勝』をもって終止符が打たれ、勝者が敗者に武装解除されたことは、なんとも残念千万であった」と無念の思いを吐露しています。