ソ連から1億8000万円の助成金が支払われていた
ミトロヒンのメモによれば、1979年秋の時点で東京駐在所のPRライン(政治情報を担当する部門)が管理していた工作員は31人、秘密接触者は24人いました。
「工作員」および「秘密接触者」には、それぞれ明確な定義があります。
工作員(エージェント)とは、機関員や諜報機関が操るフロント組織に協力して意識的かつ体系的に極秘の諜報任務を行う者を意味し、完全にKGBのコントロール下にあります。
秘密接触者(コンフィデンシャル・コンタクト)は、正式な工作員ではありませんが、思想的・政治的・金銭的動機や、情報将校とのあいだで築かれた人間関係によって、機関員に情報を渡したり、機関員からの秘密の依頼に応じて諜報活動に協力したりする者を意味します。
言い換えると、KGB本部の承認を受けて指揮命令系統に正式に組み込まれているのが工作員、そこまでいかないけれど実質的に諜報活動に協力しているのが秘密接触者ということになります。工作員や秘密接触者は、政治家・官僚・実業界・メディア・学界からスカウトされています。
1960年代に中ソ対立が深まるなかで、日本共産党が中国側についたため、KGBは日本社会党に「コーペラティーヴァ」(協力者)というコード名をつけ、社会党幹部を「影響力のエージェント」として使うための作戦を開始しました。
「影響力のエージェント」は工作員と同様、定義がある用語で、「政府高官、マスコミ、あるいは圧力団体に対して秘密裏に影響力を行使し、外国政府の目的に資することのできる個人」を意味します。
1970年2月26日、ソ連共産党政治局は、日本社会党の複数の幹部および党機関紙への助成金として、10万兌換ルーブル(当時の日本円で3571万4千円に相当)の支払いをKGBに対して承認しました。
当時の大卒初任給平均が3万9900円、現在は約23万円(厚生労働省)で5倍強になっていることから概算すれば、今の1億8000万円に相当します。このような助成金が毎年払われていたようです。
1972年に支払われた10万兌換ルーブルの内訳は、ミトロヒンのメモによれば、6万ルーブルが個々の協力者の議会内でのキャリア支援と影響力強化のため、1万ルーブルが日本社会党とソ連共産党の連携強化のため、2万ルーブルが日米関係と日中関係を損なう積極工作のため、1万ルーブルが日本社会党と他の野党、すなわち公明党と民社党との連携をさせないためとなっています。
つまり、KGBは社会党を援助しながらも、社会党が野党連合を作って政権を取ることを望んでいなかったわけです。1975年から1979年までKGB第一総局の情報将校として日本に駐在していたS・レフチェンコは、KGBの狙いを次のように述べています。
各野党の指導者に同時に働きかけ、野党連合政権を樹立させないようにすること。というのも、莫大な資金を投じて組織した現在のエージェント網を最大限に利用するためには、ソ連としては日本の政治が安定していることを望むからである。[スタニスラフ・レフチェンコ『KGBの見た日本――レフチェンコ回想録』リーダーズダイジェスト社/1984年]
田中角栄側近にもKGBのスパイがいた!?
レフチェンコは、日本で積極工作を担当していた情報将校で、1979年に勤務地の日本からアメリカに亡命し、ソ連の対日工作について詳細に証言しています。ミトロヒン文書の記述とレフチェンコ証言は重なる部分がたくさんあります。
ミトロヒンのメモによると、ソ連共産党政治局が助成金支払いを承認した時点で、すでに5人の社会党幹部がKGBの協力者になっていたようです。アンドルーとミトロヒンの解説書第二巻には実名が特定された人物がフルネームで出てきますが、ミトロヒン文書は写しであってオリジナルではないので、法的証拠能力がありません。
また、KGB文書に実名が書いてあったとしても、それだけでスパイだったと断定できるわけではないのですが、ミトロヒンのメモによると、1970年代にKGBに取り込まれたリストには、田中角栄の側近や自民党議員もいました。
KGB第一総局で日本を担当していたのは第七部で、日本以外にはタイ・インドネシア・マレーシア・シンガポール・フィリピンなど11カ国を担当していました。1970年代初期、第七部で最も多額の工作資金が投入されていたのが日本でした。
KGBは、1973年の田中角栄総理大臣の訪ソ前から訪ソ中にかけて、日本との平和条約締結に向けた積極工作を行いました。条約案は日米安保条約破棄と在日米軍基地閉鎖を条件に歯舞・色丹の返還と漁業権での譲歩を行うというもので、8月16日にソ連共産党政治局の承認を受けています。
日本が丸裸になるのと引き換えに、歯舞と色丹だけなら返してやってもいいというソ連の姿勢は、今のロシアも変わっていないのではないでしょうか。