ロシアや中国に関するニュースで耳にするようになったのが「プロパガンダ」。現代の戦争は、軍事的な手段だけではなく、非軍事的な手段も含めた「全領域」で展開され、そのひとつが情報戦だ。プーチン大統領も所属していたソ連時代のKGBが、日本に対して行っていた工作事例を、評論家・江崎道朗氏の調査担当を務める山内智恵子氏が解説します。
※本記事は、江崎道朗:監修/山内智恵子:著『ミトロヒン文書 KGB(ソ連)・工作の近現代史』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
KGBによる日本でのプロパガンダ工作
ソ連が対日工作を行ううえで、最も邪魔だったのは、日米安保条約と在日米軍基地の存在でした。ソ連は戦後、日本をアメリカとの同盟から、できる限り引き離すための工作を延々と行ってきました。
KGBが特に絶好の好機と考えたのが、1960年の日米安保条約改正をめぐって起きた、反対運動の高まりです。
1951年、サンフランシスコ講和条約締結と同時に、吉田茂首相が調印した旧安保条約は、日本防衛義務を規定する条文がなく、日本国内の暴動鎮圧に米軍が出動でき、期限や事前協議の定めもないという不平等なものでした。
そこで、岸信介首相が就任直後からアイゼンハワー大統領に粘り強く働きかけ、もっと相互的で互恵的な条約への改定を合意したのですが、日本社会党や総評(日本労働組合総評議会)などを中心に、全国統一組織「安保改正阻止国民会議」が結成され、“アメリカの戦争に巻き込まれるな”というスローガンを掲げた反対運動が展開されました。
急進的な新左翼学生組織「全学連」(全日本学生自治会総連合)も国会突入など、過激な「安保闘争」を繰り広げました。
衆議院での採決間近の1960年6月4日に行われた「全国統一行動」には、総評の発表によれば560万人が参加しました。
6月10日には羽田空港に詰めかけたデモ隊が、アイゼンハワー大統領の訪日日程を協議するために来日したJ・ハガチー報道官を取り囲んで立ち往生させ、結果としてアイゼンハワー訪日を中止に追い込みました。
6月15日の国会前デモの参加者数は、主催者発表によれば33万人に上り、1946年5月の「食糧メーデー」の25万人を上回っています。食糧メーデーは、お心を痛められた昭和天皇がラジオでおことばを賜ったほどの事態でしたが、安保闘争デモも容易ならざる事態で、一時は岸首相が赤城宗徳防衛庁長官に自衛隊の治安出動を要請したほどです(結局、治安出動命令は出されませんでしたが)。
KGBが日本に対して行っていた3つの工作
ソ連の情報機関KGBの海外諜報部門である第一総局で、文書や情報の整理と管理を担当していた元KGB将校であるワシリー・ミトロヒンが、機密文書を書き写した「ミトロヒン文書」によると、KGBは「安保闘争」を盛り上げただけでなく、第一総局のA機関(偽情報・秘密工作担当)に命じて日米安保条約附属書を偽造し、プロパガンダ工作を行っていました。
この附属書によると、米軍は旧安保条約と同様に、日本国内の暴動鎮圧に出動することになっていました。実際には新安保条約にそのような附属書は存在しないのですが、安保改定後も米軍が日本国内での暴動鎮圧にあたる密約がある、という偽情報を拡散したわけです。偽造附属書では、さらに日米の軍事協力の範囲が、中国沿岸とソ連の太平洋艦隊を含むことになっていました。
この偽情報を使って、「日本はアメリカに支配されている!」「日本は海外に武力進出するのか!」と、政治不信と安保反対運動を煽るという筋書きです。自衛隊のPKO初参加のときも、小泉内閣の有事法制制定のときも、第二次安倍内閣の平和安全法制制定のときも、こういう煽り方は感心するくらい全然変わっていません。
こうした積極工作のほかに、KGBが日本に対して行っていた工作は、大きく分けると、有事および平時の特殊工作、日本の政官財界やマスコミへの浸透と工作員獲得、科学技術情報収集の3つがありました。