日本におけるKGBの破壊工作計画

もちろん日本でも、DRGが日米両国の施設を攻撃するための計画が作られていました。ミトロヒン文書はその一例として、日本駐在所のFラインが1962年に沖縄の米軍基地および、日本国内4カ所の主要な製油施設に対する破壊工作計画を準備したことを示しています。

また、1970年にはDRGの上陸地点候補として、北海道北西沿岸の4カ所が指定されました。1945年に日本がポツダム宣言を受諾したあとでソ連が千島列島に侵攻したとき、あわよくば北海道も攻撃・占領する気満々でしたから、戦後も有事の際に北海道を再び狙ってくるつもりだったのは当然でしょう。

ミトロヒンが場所を明らかにした武器庫や無線基地は、政府が対処しているのでしょうが、実際はどうなのでしょう。

日本政府が、ソ連の手による日本国内の武器庫や秘密基地について確認したのかどうか、私には知る由もありませんが、ミトロヒン文書に詳しい情報が出ている可能性があるなら、調査して確実に除去していただきたいものです。

日本の治安を守るために警戒するべき対象は、外国の情報機関だけでなく、過激な政治団体やテロ組織などいろいろあります。日本の安全保障は、有事および平時の破壊工作のための施設・計画・要員が、国内に存在していることを前提に考えるべきではないでしょうか。

ピース缶爆弾事件はKGBのテロだった?

KGBの破壊工作には有事を想定したものだけではなく、平時の計画もありました。日本のFラインの計画のひとつが、1965年10月にベトナム反戦デモと同時に、東京のアメリカ文化センター(現在のアメリカン・センター)内の図書館を攻撃する「ヴァルカン作戦」でした。

工作員「ノモト」が図書館の閉館直前に、本型の爆弾とアメリカ製タバコの箱に仕込んだ起爆装置を本棚に仕掛け、早朝に爆破するよう時限装置をセットする計画です。KGBの犯行であることを隠すため、米軍施設への攻撃を呼びかける日本の極右団体のビラをA機関が用意することになっていました。ソ連はよく、自らの犯行を極右団体のせいにする偽装工作をしていました。

ミトロヒン文書によると、ノモトはロシアに移住してカムチャツカで漁業をしていた日本人で、現地でKGBにスカウトされ、1963年に日本に送り込まれています。

ミトロヒン文書には、結局この計画が実行に移されたかどうかの記述はなく、1965年の新聞には該当する事件の記事は見当たりません。

ところが、1969年11月1日に、アメリカ文化センターに時限爆弾が送りつけられて職員、職員1名が負傷する事件が起きています。爆弾はアメリカ製タバコではなくピース缶に仕込まれていました。

1969年から1971年にかけて、この事件を含めて4件の爆破殺傷事件(総称して土田・日石・ピース缶爆弾事件)が続き、警察はこの4件の被疑者として18人の過激派学生を逮捕しました。裁判の結果、別件有罪の1人を除いて全員が無罪になりました。

樋口恒晴常磐大学教授は、このアメリカ文化センター事件がKGBのヴァルカン作戦だったと指摘しています。

もうひとつ、実施されなかったものの非常に衝撃的な別の計画があります。1969年に作成された、東京湾に放射性物質をまき散らす作戦で、これによって米軍横須賀基地の原子力潜水艦に対する全国的な非難を巻き起こすはずでした。そのためには放射性物質をアメリカから調達する必要がありましたが、入手が難しく、かといってソ連製の放射性物質では足がつく恐れがあるため、本部が却下しています。

▲横須賀港に停泊する米軍艦 出典:かたな / PIXTA

最初にこの作戦について読んだときは、東京湾をダーティ・ボムで核攻撃するつもりだったのかと早合点して非常に驚いたのですが、目的は米軍の原潜への非難を煽ること、つまりプロパガンダ工作なのです。そのためにここまでやるのかというのがまた驚きです。もし実行されていたら、どれだけひどいパニックが起きていたかを想像すると、本当にぞっとします。

ミトロヒン文書によれば、1971年にロンドン駐在のFライン担当情報将校が亡命したため、Fラインの特殊工作計画が大幅に縮小されたそうですから、ソ連が解体した今となっては、こんな作戦は過去の遺物になっているといいのですが……。

DRGの武器庫には、ブービー・トラップが仕掛けられているものがあります。1998年の後半に、ミトロヒンの情報に基づいてスイス当局がベルン近郊でKGBの無線機の隠し場所を発見した際は、除去作業中に爆発が起きています。ミトロヒンが写したKGBファイルには、ブービー・トラップの解除法の手順解説がしっかり含まれていました。それでも爆発事故が起きたのですから本当に危険です。