東京・文京区にユニークな寿司屋がある。その店は完全紹介制で、普通では出てこないネタや、郷土寿司などからヒントを得た創作寿司などが味わえるだけでなく、使われた食材の背景や、それにまつわる蘊蓄を知ることができ、この店でしか味わえない寿司体験ができると評判だ。
その店の名は『酢飯屋』。店主・岡田大介は自らを“すし作家”と称し、今や活動の幅は多岐に渡る。2021年には子ども向けの写真絵本『おすしやさんにいらっしゃい!』を出版。第69回産経児童出版文化賞 準大賞(JR賞)、第68回青少年読書感想文全国コンクール課題図書、第27回日本絵本賞を受賞。10万部を超える異例のヒットとなっている。
パワフルに活動する彼の活動の原動力となっているものは一体なんなのか。寿司職人の世界に入った経緯を振り返りつつ、現在のさまざまな活動についても語ってもらった。
どれが“アジ”かわからないレベルで寿司職人の道へ
――料理の道に進もうと思ったところから聞かせてもらえますか?
岡田大介(以下、岡田) 料理の世界に入ったのが18歳のとき。子どもの頃から料理が好きだったわけでもなんでもなくて、母の死がキッカケでした。
子どもの頃の僕は、通知表も5段階のオール3みたいなタイプ。とくに得意もなければ、不得意もあんまりない。中学・高校はバスケットをずっとやってましたけど、それで食べていこうなんて思っていなかったし、ぼんやり「大学に行ってサラリーマンになろう」と思っていました。
でも、大学受験の浪人中だった18歳のときに母親が急逝したんです。それで家の中でご飯を作る人がいなくなってしまって。当時、妹と弟はまだ小学生。母親を失った傷も癒えないまま、食事も誰も作れない。それで仕方なく買い食いしまくってしまう。そんな生活をしているうちに弟が体調を壊してしまったんです。
「なにをしに行くかわからないのに大学に行くのであれば、自分にしかできないことをやるべきなのでは……。だいたい、ご飯も作れないって人としてどうなの?」と気づいて。家族のために毎日作るなら和食と考えて、地元の寿司割烹店の門戸を叩きました。
――そのお店に入った段階で、岡田さんの料理の腕前はどれぐらいでしたか?
岡田 リンゴの皮をむけないし、キャベツの千切りもできない。魚もどれがアジなのかわからない。そんなレベルでした。店側は、人材はつねに募集中だったので、もちろん下働きからですが、技術は全然なくても受け入れていただけました。
でも、入るときに「食の道を進むんだ」と腹をくくったんです。それはなぜなら、母親からのメッセージだと思ったので。僕が将来、何をしたいかわからないというような学生だったので、母が「あなたは食で行きなさい」と言っているんだろうなと。そうでもしないと、母の死をうまく受け入れることができなかった、というのもあったんですけどね。
――決意はあっても、技術はない。そんな状況からのスタートでしたが、修業はどうでしたか?
岡田 技術や知識はないけれど、もともと人とのコミュニケーションは得意だったし、子どもの頃から敵をあまりつくらないタイプで。めちゃくちゃコワイ先輩方がいたんですけど、みんなとうまく接することができました。
修業の大変さはもちろんありましたけど、それ以上に、毎日一日を過ごすと、何かしら必ず学びがあるんです。リンゴの皮をむけないぐらいのゼロの状態だったので、まさにスポンジ状態。技術も知識もみるみる吸収し、できることがどんどん増えて上達していくばかりでした。
当時、同世代の料理人はあまりやっていなかったようですが、先輩たちに技術が追いつかないぶん、教わったことをノートにまとめたり、メモを取ったりしていました。夜、家に戻ったらそのノートを見て、朝にもう一度見直して。そのまま仕事で、その知識や技術を実地で繰り返して。自分が成長しているのが手に取るようにわかる経験は、学生時代にはなかなか得られなかったので、毎日が楽しかったです。