国益を守るためのカウンターインテリジェンス

ケズウィックは、このあと間もなく中国から追い出されましたが、イギリスはインドを拠点として中国共産党と手を結んでいました。

1944年春以来、中国共産党の情報機関が、広西省政府主席の李済深に国民党政権に反乱するよう促しており、イギリスの軍と情報機関が直接、この反乱計画に関わっていました。

▲国民革命軍時代の李済深 出典:ウィキメディア・コモンズ(パブリック・ドメイン)

マイルズ・マオチュン・ユ教授によれば、広西省桂林でイギリスの対中支援の責任者を務めていたW・P・トンプソン大佐が、李済深・広西省政府主席に、イギリスの空挺部隊二個師団を反乱のために提供すると約束しており、李済深もロンドンと直接連絡を取っているという情報がありました。この情報は、イギリスの準軍事組織「英国陸軍援助グループ」のL・T・ライド大佐が、アメリカの情報機関に報告したものです。

延安の中国共産党本部直轄で、この計画に関わっていた桂林の中国共産党工作員の一人が、リヒャルト・ゾルゲのスパイグループの一員だったことで有名な陳幹笙です。

蔣介石の軍事委員会は、1944年3月、陳を桂林で逮捕するよう令状を出しましたが、李済深・省政府主席は陳にその情報を流し、イギリス情報機関が直ちに陳を救出して空路インドに連れていきました。

陳はその後、イギリス情報機関に雇われ、終戦までイギリスの情報省極東部の工作員として働いたといいます。戦時中、イギリスの情報機関が中国共産党と連携していた事実はもっと強調されるべきでしょう。

1943年8月、イギリスが新たに東南アジア連合軍の設立を提案し、総司令官としてイギリス海軍提督ルイス・マウントバッテンが、副司令官としてアメリカ陸軍のジョゼフ・スティルウェルが就任しました。当然、連合軍同士の連携が必要でしたが、英米の対中政策がここまで異なっていたのですから、さまざまな困難があったことは想像に難くありません。

こうしてみると、日本は日英同盟でイギリスと情報協力をしながら、よくぞ生き延びたものだと思いたくなります。もちろん、日英同盟があったからこそ、日本は日露戦争に勝てたのですが……。

相手が同盟国であろうとも、国益を守るためのカウンターインテリジェンス(防諜)が絶対に必要であり、決して油断してはならないことを痛感させられます。

※本記事は、山内智恵子:著、江崎道朗:監修『インテリジェンスで読む日中戦争 -The Second Sino-Japanese War from the Perspective of Intelligence-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。