1019日ぶりの勝利

こうして迎えたのが、復帰2戦目となる7月11日、同じく神宮球場で行われた対横浜DeNAベイスターズ戦だった。前回登板後、順調に回復していた。この日は、何も心配なくマウンドに上がることができた。

初回こそ、二死から三番・梶谷隆幸(現読売ジャイアンツ)に四球を与えてしまい、続く四番・筒香嘉智(現ピッツバーグ・パイレーツ)にタイムリーヒット打たれて先制を許してしまったが、それ以降は思うようなピッチングができた。

打線の援護があり、5対1とリードをしたまま6回80球を投げて、被安打1、1失点でマウンドを降りることになった。この日も、後続の投手陣は気持ちのこもったピッチングを見せてくれた。秋吉、松岡健一、そしてオンドルセク。みんなが必死になって繋いでくれた見事な継投リレーで、チームはそのまま勝利した。

5対1、2012年9月25日の阪神タイガース戦以来、実に1019日ぶりの勝利だった。

▲1019日ぶりの勝利 イメージ:popo11994 / PIXTA

この日の神宮球場には、クラブハウスで石川雅規さんが見守ってくれていた。石川さんは前夜に勝利投手となった後、報道陣にこんな言葉を残している。

「館山とローテーションを回りたいと思っていた」

石川さんからのバトンをしっかりと受け止めたい。そう強く感じていた。

球場スタンドには右肩手術からの復活を目指す由規の姿もあった。もちろん、球場には妻も娘も駆けつけてくれた。リハビリ中のつらい時期を支えてくれた人たちが神宮球場まで駆けつけ、僕の復活のときを見届けてくれたのだった。

試合後、久しぶりのお立ち台に立った。

「いやー、長かったですね。本当にすみません。遅くなりました!」

復帰登板では号泣した僕だったが、この日は涙はなかった。先に述べたように、このときすでに、僕の次なる目標は「チームの勝利に貢献すること」に切り替わっていたからだ。そして、自分のこのボロボロの右腕でチームに勝利を呼び込んだのだ。

嬉しさと満足感しかなかった。涙なんか必要なかった。

「何度手術しても、みなさんがいれば、こうやって戻ってくることができるんです!」

心の底からの言葉だった。僕には帰れる場所があった。チームメイトやファンの人たちが待ってくれている、この場所があった。

この日、僕が着ていたのは2015年版の燕パワーユニフォームだった。そう、リハビリ期間中に僕もプロジェクトに関わった、あの緑色のユニフォームだ。これも何かの因縁なのだろう。

この勝利は一つの通過点だった。しかし、プロ通算79勝目は、僕にとって一生忘れることのできない大きな一勝となった。学生時代から館山を知る村田はこう語る。

やっぱり、「館山は精神的に強い男だな」と改めて思いましたね。

いろいろなところで勉強をして、いろいろな経験をして、何度も自分のことを立て直すことができる。そんな数少ないタイプの人間だと思います。何度も手術をして、リハビリを経験していたら、普通は戻ってこられないですよ。

やっぱり、館山は精神的に強い男なんですよ。

村田修一/談

その後も、適度な登板間隔を保ちつつ、先発登板の機会を与えてもらった。

7月24日には、中日ドラゴンズを相手に7回3失点で2勝目をマークした。8月にはいずれも阪神を相手に連続で勝利投手となり4勝目。30日の試合では、阪神先発の岩崎優から、僕自身5年ぶりとなるホームランを放った。

まだ、中6日でローテーションを守れるほどの体力はなかった。試合の中盤になると前腕が張ってくるのもわかっていた。まだまだ本調子とは言い難かったし、間隔を空けることによって、他のピッチャーにそのしわ寄せがいっている点も心苦しかった。

それでも、間隔を空けながらも、定期的に投げられている幸福感は格別だった。

この年のペナントレースは、阪神、巨人、ヤクルトによる3球団が熾烈な優勝争いを繰り広げていた。9月12日時点では阪神とヤクルトが同率で首位となり、3位・巨人とのゲーム差はわずかに1だった。

どこが優勝してもおかしくない、混沌とした状況だった。

2011年シーズンはペナントレース終盤まで優勝争いをしたものの、最後の最後で中日に抜き去られてしまって優勝を逃していた。この年、僕は血行障害を発症し、満足なピッチングを披露することはできなかった。

あのときの悔しさは決して忘れない。