実現のために移籍金1000万円を支払った東スポ

こうして決定した猪木vs小林だったが、実現までにはここからさらに難航した。国際プロレスが小林の契約違反を主張し、試合の中止を求めてきたのだ。これを解決するには国際に違約金を支払わなければならなかったが、当時の新日本は旗揚げ後1年で約1億円の借金を抱えており、違約金を支払ってまで試合を実現させる経済力がなかった。

そのため夢の対決は暗礁に乗り上げかかったが、この窮地を救ったのが東京スポーツだった。なんと東スポは、1000万円の移籍金を国際に支払い、小林を自社の所属レスラーとすることで猪木戦を実現させたのだ。

この時の背景を当時、東スポの記者だった門馬はこう語る。

「あの頃、力道山が作った日本プロレスが分裂して、馬場の全日本と猪木の新日本に分かれたことによって、プロレス人気が下火になってたんだよ。プロレスの人気が新聞の売上げに直結していた東スポは、そこに危機感を抱いていた。猪木vs小林という夢の対決は、プロレス人気復活の起爆剤として期待されていたから、それが中止になったら、東スポとしても困るわけだよね。だから1000万という当時としては破格のお金を払ってでも、試合を成立させようとしたんだ」

新聞社がレスラーを自社の所属レスラーとする……そんな前代未聞の“裏技”まで使って
実演させた猪木vs小林は、凄まじい反響を得ることとなる。

力道山vs木村政彦以来、20年ぶりとなる超大物日本人対実現に日本中が沸き立ち、蔵前
国技館は超満員札止めとなる1万6500人を動員。3000人以上のファンがチケットを買えずに帰ったと伝えられている。

「あの日の客入りは、ハンパじゃなかったよ。地下鉄の駅から蔵前橋を渡った先にある国技館まで行列がまったく途切れなかった。新日本も立ち見でお客を入れるだけ入れて、あとで蔵前警察署からお叱りを受けていたからね」

こうして異様な熱気の中で行なわれた猪木vs小林戦は、試合内容も素晴らしいものとなった。“怒涛の怪力”と呼ばれた小林が、ベアハッグ、ハンマーロックなど、得意のパワー殺法で攻め込めば、猪木はねちっこい関節技やナックルパンチで応戦する。

そして最後は、小林の必殺カナディアン・バックブリーカーをリバース・スープレックスで切り返した猪木が、すかさずバックドロップ。そして、今でも語り草となっている、あまりの勢いで猪木の足が浮くほどのジャーマンスープレックスホールドで29分30
秒の熱闘を制した。

「あの試合を引っ張っていたのは、プロレスにおけるインサイドワークに長たけた猪木だったけど、あれについていった小林も立派だと思うよ。あの身体の硬い男がよくあそこまでやったよ。敗れはしたけど、小林にとっては一世一代の試合だったんじゃないかな。でも、あの試合によって、時代の先頭に立ったのは猪木だったね」

試合後、額から血を流しながらリング上で勝利者インタビューを受けた猪木は、「こんな試合を続けていたら、10年持つレスラー生命が1年で終わってしまうかもしれない。しかし私は、いつ何時、誰の挑戦でも受ける!」という名語録を残し、ファンのハートをガッチリと掴んだのだ。

▲猪木と小林の名勝負はその後のプロレス界を大きく変えた

そして試合翌日、朝刊スポーツ紙は1紙をのぞく全紙が、猪木vs小林を一面で大きく扱い、日本プロレス分裂後の低迷から脱却することにも成功した。こうしてプロレス界は、“猪木時代”を迎えたのである。

猪木をトップに押し上げプロレス界の流れを変えた

敗れた小林はこの試合後に渡米し、フロリダとニューヨークを転戦。そして同年12月
12日、前回と同じ蔵前国技館で猪木に再挑戦したが、卍固めをきめられ、レフェリーストップで無念の連敗を喫してしまう。

そしてこれを機に新日本にレギュラー参戦するようになり、75年5月には正式に新日本に入団。猪木、坂口征二に次ぐナンバー3のポジションを得るが、徐々に長州力や藤波辰巳の後塵を拝するようになり、81年に腰痛の悪化もあり戦線離脱。そのままリングには戻らず、84年に現役引退を表明した。

「小林が引退したあと、何度か話す機会があったけど、新日本のことを良く言ったことは一度もなかったな。結局、猪木戦のあとはどんどん冷遇されるようになっていったからね。国際プロレスの思い出話をすることはあっても、新日本時代のことは決してしゃべらなかった。いい思い出がなかったんだろうな。国際プロレスっていうのは、和気あいあいとしていて、絆や人間味、義理人情を大事にする世界だったけど、新日本と小林の関係はビジネスでしかなかったんだろうね」

猪木vs小林の一戦は、猪木を日本プロレス界のトップに押し上げると共に、それまで日本人vs外国人が当たり前だった各団体のマッチメイクが、日本人対決主流へと変えていくきっかけともなった。猪木vs小林は、単に夢の対決というだけでなく、現在まで続くプロレスの大きな流れを作り出した一戦だったのである。

※本記事は、堀江ガンツ​:著『闘魂と王道 -昭和プロレスの16年戦争-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。