“バイスワカガシラ” ヒロシ
翌日、指定された喫茶店で待っていると、15分くらい遅れて彼がやって来た。
「トミーか」
ぶっきらぼうにそう言うと、優雅な身のこなしで向かいのソファに腰を下ろし、濃い色のサングラス越しに俺をじっと見た。
「ヒロシだ」
ダークスーツにレジメンタルタイ、サングラスをかけていなければとてもヤクザには見えない、20代後半のハンサムガイだ。
「トミーです。よろしくおねがいします」
「話は銀次のアニキから聞いた……おまえ、本気でヤクザやる気あるんだな」
じっと俺の目を覗き込むヒロシに、俺はゆっくりとうなずいた。
「もちろんです」
「一度なったら、もう引き返せないんだぞ」
「……わかってます」
俺がうなずいたとき、そばにあった大型のスピーカーから「♪ジャジャジャジャーン」というベートーベンの『運命』が流れ出し店内の空気を震わせた。さっきからけっこうな音量でかかっているBGMが全部クラシック音楽だということには気づいていたが、それにしてもなんだか妙な感じがした。
まるで俺の心の中を読んでいたようにヒロシが言った。
「合わねえと思ってるんだろ。ヤクザとクラシック……。そうなんだよ、合わねえんだ。だからこの店選んでんだ」
「?…………」
「Just think about it(考えてもみろ)」
ヒロシはまるで銃を突き出すように俺に人差し指を向けると、ミスター・スズキよりずっと流暢な英語で言った。
「こんな真っ昼間からおまえみたいな怪しいガイジンと会ってるとこ見られたら、どんな噂を立てられるかわかんねえ。だから絶対にほかのヤクザが入ってこないようなとこを選んでんだよ。俺らがいちばん気をつけなきゃならねえのはサツじゃねえ、よその組のヤクザだ」
「I see(なるほど)」
「ヤクザってのはよ、ことごとく育ちが悪いんだ。居間にピアノがあって、クラシックが流れてるような家で育ったヤツは一人もいない。だから大人になってもクラシックは聴かないし、聴いてもわかんねえんだよ。だからここみたいな名曲喫茶には近寄ろうともしねえんだ」
「なるほど……ところで一つ聞いてもいいですか。ヒロシはどうしてそんなに英語がうまいのですか?」
「バカヤロー、組の若頭を掴まえて気安く名前で呼ぶんじゃねえよ」
「オー、すみません。あなたワカガシラでしたか、失礼しました」
「ま、まあ……正確に言えば若頭補佐ってヤツだけどな」
若頭というのは、ヤクザの組の中では組長(会長)に次ぐ権力者で、次期組長の筆頭にあたる。家族にたとえるなら、組長が父親なら若頭は長男ということになるのだ。
「ワカガシラホサ……? ホサってなんですか?」
「まあ、直訳すればアシスタントってことになるが、どっちかっていうと、バイスワカガシラって感じだな」
「バイスプレジデントのバイスですね」
「まあな……で、なんだ? 俺がなんで英語をしゃべれんのかって?……」
「はい」
「じゃあ、聞くが、おめえはなんで日本語しゃべれんだ。日本でヤクザになるのに必要だったからだろ。俺もビジネスで英語が必要だから覚えた。もう、ヤクザも度胸と腕っぷしだけでやってける時代じゃねえんだよ。それだけの話さ」
ほんの短いやり取りだったが、この男はデキる――。俺はそう確信した。このヒロシという男についていこうと思った。俺は映画で見たシーンを真似て、目の前のテーブルに両手を付いて頭を下げた。
「若頭、俺を子分にしてください」
「子分にするしないは、俺じゃねえ、親分である組長が決めることだ」
ヒロシはそう言うと俺に「行くぞ」と声をかけ席を立った。
「ツリはいらねえよ」と万札をポンと会計カウンターの上に置いて店を出ていくヒロシの背中を俺はあわてて追いかけた。