小林のマスク剥ぎで引き出された“怒りのタイガー”
このタイガーの大ブレイクを小林は、修業先のメキシコで聞いたという。
「当時、日本とメキシコ両方で活躍していたグラン浜田さんから『佐山がタイガーマスクに変身して、すごい人気だぞ』って聞いたんですよ。そのときは、同じ釜の飯を食った仲間の成功に対し、素直に『良かったなあ』と思いましたけど、翌年、僕が帰国して、そのタイガー人気を実際に目の当たりにしたとき、それはジェラシーへと変わったね」
小林は82年10月8日、後楽園ホールで帰国第1戦を行なうが、試合は興行の前半で組まれた、なんの変哲もないタッグマッチ。看板スターである猪木を上回る人気を誇っていたタイガーマスクとは、大きな“格差”が生まれていた。
「僕の帰国第1戦のとき、ちょうどメインイベントで長州が“噛ませ犬発言”をして、藤波さんに対して造反したんですよ。そのとき、頭をよぎったのは『俺もこのままじゃいけない』っていうことですよね。若手時代から仲の良かった佐山は、いまや猪木さん以上の大スターだし。同じ時期にメキシコにいた長州も、あの発言以降、時の人となって違う次元に行った。
それに対し、僕はなんでもない中堅レスラーだったから、『自分も何かアクションを起こさなきゃいけない。長州が藤波さんに突っかかるなら、俺は大スターになった佐山に突っかかるしかない』と思って、広島で突っかかったんだよね。あれをやらなかったら、僕なんかあのまま埋もれて終わってましたよ」
小林は10月22日の広島大会で、試合前のタイガーマスクを急襲。それを受けて、10月27日に大阪府立体育会館でついに一騎打ちが組まれると、反則もお構いなしにラフで攻め立て、ついにはタイガーの覆面をビリビリに引き裂いて剥いでしまったのだ。
マスクマンの覆面に手をかけるというのは、プロレス界のタブーのひとつ。そのタブーを、よりによって子どもたちのスーパースターであるタイガーマスクに対して破ったことで、大阪府立体育会館は騒然となる。タイガーの覆面が剥がされたときには、会場の各所から大きな悲鳴があがった。
「あのマスク剥ぎというのは、覆面レスラーの本場であるメキシコマットでも、いちばん観客が興奮するシーンなんですよ。だから、抗争が始まったときから狙ってましたよ。あのとき、タイガーマスクのライバルだと、ダイナマイト・キッドもヒール的な戦いをしていたけど、マスクにまでは手をかけなかった。あの虎のマスクは神聖なもののようになっていたからね。
だから、それを破って剥いだあとが大変でしたよ。ウチの実家のほうにも嫌がらせがあったし、僕のところには全国から不幸の手紙みたいなのが届いて、真っ赤な字で『小林、死ね!』とか『お前なんか、生きてる価値はない』とか、書かれましたからね。あとはカミソリを仕込んだ手紙もあって、封を開けたときに親指をザックリ切ってしまって、未だにその傷は残ってますよ。
でも、そういう手紙が大量に届いて、内心『やった!』と思いましたね。あれでなんの反響もなかったら、僕は終わりだったんだから」
禁断のマスク剥ぎのインパクトは絶大であり、ここからタイガーマスクと小林邦昭の抗争がスタート。これによって小林はブレイクしたが、タイガーマスクもこの抗争によって、これまでとは違う新たな魅力を見せ始めた。
「僕と抗争が始まるまでタイガーマスクは、メキシコのマスクマンとの対戦が多かったんだよね。そうなると、どうしても飛んだり跳ねたりのルチャ・リブレの試合になる。でも、佐山はシビアな戦いを求めていたはずだから、それは本意じゃなかったんだと思う。だから、若手の頃から新日本プロレスのストロングスタイルでやり合っていた僕っていうのは、佐山にとっても燃えられる相手だったんじゃないかな」
衝撃のデビュー以来、タイガーマスクは、毎週次々と現われる敵を華麗な技で倒していく完全無欠のヒーローだった。ある意味、子ども向けの特撮ヒーローやアニメの主人公とやっていることは同じでもあった。
しかし、小林という宿敵を得たタイガーは、破られたボロボロのマスク姿で怒りを全面に出しながらケンカ腰で戦う、これまでとは違うスタイルに変化した。これによって、タイガーは子どものファンだけでなく、高校生・大学生や大人のファンも多数獲得する。そして、この激しい抗争によって、タイガー人気とともに、小林のアンチ・ヒーロー人気も爆発。こうしてタイガーマスクが生み出したプロレスブームは頂点を迎えるのであった。