タイガーマスクと名勝負数え唄によって変わるプロレス

藤波といえば、ジュニアヘビー級時代も剛竜馬、阿修羅・原、木村健吾といった日本人のライバルが存在したが、長州との抗争は、それらとはまったく違う意味合いを持っていたという。

「剛や原、木村っていうのは、僕がジュニアのチャンピオンとして、一つひとつクリアすべき相手だったんだよね。あくまで主役は僕で、彼らは“僕の対戦相手”でしかなかった。でも、長州との抗争はそれとは全然違っていて、どちらが主役の座を奪うかという本当の戦いだったんだよ。自分が下手を打ったら、その座がなくなるという、すごくシビアなシチュエーションだったんだ」

そんな生の感情がぶつかり合う試合は、回を重ねるごとに白熱。ファンも藤波派と長州派にまっぷたつに別れ、どちらのファンというより、「どちらの生き方を支持するか」という意味合いすら生まれてきた。

「だから長州と試合すると、試合前とか試合後に長州のファンからたくさん物を投げられましたからね。僕らも本気だったけど、ファンも本気だったんですよ」

▲藤波辰巳と長州力による「名勝負数え唄」に若者たちは熱狂した

そして、この抗争はいつしか「名勝負数え唄」と呼ばれるようになり、若者たちの圧倒的な支持を得ていく。

「いま思うと、よくあそこまでやり合ったなって思うけど、当時は僕が28歳で長州が30歳。コンディションも良くて、いちばん動けるときだったし、なにより気持ちが乗っていたよね。僕と長州の試合というのは、それまで絶対的な存在だった猪木さんを、ある意味で食っていたと思うし、長州vs藤波があれだけ盛り上がると、猪木さんの性格からすると、面白くなかったと思うし、ものすごくイライラしたと思うよ(笑)」

このとき、猪木はすでに39歳。糖尿病を抱えコンディションも万全とは言えず、藤波と長州の急成長を力で押さえ込めなくなっていた。タイガーマスクは人気で猪木を上回り、藤波と長州は試合そのもので猪木を上回り始めたのだ。

さらに時を同じくして、猪木は個人的な事業であるアントンハイセルが火の車となり、その莫大な借金は新日本プロレスの経営までも圧迫。大ブームであるはずなのに、会社にはカネがないという、不透明すぎるカネの流れにより、新日本内部はグチャグチャになり、圧倒的な権力者であったはずの猪木はリング上でも、リング外でも急速に求心力を失っていったのだ。

そして、ついには内部のゴタゴタが原因となり、83年8月10日にタイガーマスクが突然の引退を発表。翌84年9月21日には、長州、小林ら維新軍が新日本プロレスを退団し、ジャパンプロレスの設立を発表する。

こうして絶頂期からわずか1年あまりで、新日本プロレスは崩壊の危機に瀕し、プロレスブームも終焉を迎えた。

タイガーvs小林と藤波vs長州、二つの抗争によって頂点を極め、その抗争が終わるとともに終焉を迎えた空前のプロレスブーム。しかし、この二つの抗争がのちのプロレス界に与えた影響はあまりにも大きい。

まず、試合開始直後からトップギアに持っていくような長州と藤波の戦いぶりは、“ハイスパートレスリング”と呼ばれ、それまでの序盤からフィニッシュまで、じわじわと盛り上がっていくプロレスのスタイルを劇的に変えてしまった。

さらに長州と小林ら維新軍のアンチ・ヒーロー人気により、ベビーフェイスvsヒールという図式が崩れ、力道山時代からの伝統であった日本人vs外国人の戦いも、日本人同士の闘いへと変わっていった。

タイガーvs小林、長州vs藤波の抗争は、プロレスを劇的に進化させたが、勧善懲悪という伝統的なフォルムを崩したことで、プロレスは子どもからお年寄りまで誰もが楽しめる大衆娯楽から、マニアックなファンが熱狂的に支持するサブカル的なジャンルへと変わっていったのだ。

タイガーマスクの出現と、長州力vs藤波辰巳の名勝負数え唄は、そのあまりのインパクト故に、プロレスを根本から変えてしまった。

1982年のプロレスブームとは、そんな巨大な転換期であったのだ。

※本記事は、堀江ガンツ​:著『闘魂と王道 -昭和プロレスの16年戦争-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。