藤波長州の名勝負は生き残りを賭けた“リアルファイト”

一方、タイガーマスクvs小林邦昭と同時進行で、もうひとつ、プロレス界の歴史に残る抗争が勃発した。それが藤波辰巳と長州力による、“名勝負数え唄”と呼ばれた一連の戦いだ。

その抗争が始まるきっかけとなった“事件”は、1982年10月8日後楽園ホールのメインイベント、アントニオ猪木&藤波辰巳&長州力vsアブドーラ・ザ・ブッチャー&バッドニュース・アレン&SDジョーンズの6人タッグマッチで起こった。

この日がメキシコからの帰国第1戦だった長州は、現地のメジャータイトルUWA世界ヘビー級王者となって帰国したにもかかわらず、これまでと同様に藤波より“下”の扱いであることに不満を露わにし、試合前から味方である藤波と試合そっちのけで小競り合いを展開していた。

そして、ついに試合中に仲間割れを起こし、マイクを握ると「なんで俺がいつまでもお前の下なんだ。俺はお前の噛ませ犬じゃないぞ!」と、藤波に宣戦布告を行なったのだ。

それまで長州は、ミュンヘン五輪レスリング代表選手として鳴りもの入りでプロレス入りしたものの、なかなかブレイクできずに燻ぶっていた。中肉中背で頭にパーマをあてたルックスや、ファイトスタイルはいかにも地味であり、「長州力」というリングネームもビートたけしにギャグで使われる始末。

ところが、不退転の決意で渡ったメキシコ遠征で、浅黒く焼けた肌に長髪というワイルドな風貌に変身。そして、不遇の時代が長かったからこそ、「お前の噛ませ犬じゃないぞ!」という長州の叫びは真に迫っており、その結果、多くの人々の共感を呼び、一躍時の人となった。

一方、噛み付かれた側の藤波もまた、自分のポジションに焦りと危機感を持っていた。

藤波は78年にニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで、カルロス・エストラーダを初公開のドラゴン・スープレックスでくだし、WWWFジュニアヘビー級王座を奪取。シンデレラボーイとなり、これまで大男同士の戦いだけであった日本のプロレス界に、ジュニアヘビー級という新たなジャンルを開拓。これまでにないスピーディな戦いで“ジュニアヘビー級ブーム”を作り上げたが、タイガーマスクの登場とともにジュニアを卒業して、ヘビー級に転向した。

一見、順風満帆に見えるレスラー人生だが、実は長州と同じような悩みを持っていたと藤波は言う。

「僕はあの当時、ヘビー級に転向したものの、ジュニアのイメージがなかなか抜けなくて、もがいていたんだよね。僕がいくらヘビー級の外国人と戦っても、ファンは『ジュニアの藤波が、ヘビー級のハルク・ホーガンやディック・マードック相手にどれだけできるか』という、チャレンジマッチ的な見方しかされなかった。あまりにもジュニアヘビー級で成功してしまったがために、ヘビー級に脱皮するのが難しかったんだ。

また、ヘビー級だとどうしても猪木さんと比較されるし、タイガーマスクがいるから、今さらジュニアヘビー級にも戻れない。自分のポジションを築けずに、焦っていたんだ」

そんななかでの“格下”長州力からの宣戦布告は、藤波にとって当初は迷惑でしかなかった。

「自分としては、“早くヘビー級のトップに食い込まなきゃいけないのに、お前に構ってる暇はないんだよ!”っていう思いがあったよね」

歌の世界でたとえるなら、当時の長州は鳴り物入りでデビューしながら、なかなかヒット曲が出なかった歌手のようなものであり、対する藤波はアイドルとして人気を博したがために、大人の歌手への脱皮に苦しんでいたような状態だったのだ。

だが、そんな追い込まれた二人の戦いだからこそ、試合はこの世界での生き残りを懸けた“ガチンコ勝負”となった。

「長州は『これでダメだったら、もうプロレスを辞めよう」と決心していたわけでしょ? 僕は僕でジュニアに戻れないし、ヘビー級ではなかなかトップに食い込めない焦りがあった。だから長州との戦いというのは、どちらか落ちたほうが、ヘビー級のトップクラスへの道が閉ざされるということを意味する、ある種の“真剣勝負”だったんだよね。

だから、あの噛ませ犬発言のあと、最初の一騎打ちは(10月18日の)広島だったんだけど、もうケンカまがいの意地の張り合いで、どっちかが死んじゃうんじゃないかっていうくらいの試合だったからね。結果はノーコンテスト(無効試合)になったけど、あんなにやり合ったノーコンテストは今までなかった。

だから、当時は何度も夢で見ましたよ。長州との戦いで、ひとつでも落としたら、俺はそこから脱落で、プロレスラーとして自分の出番はなくなるって。それぐらい切羽詰まった気持ちはありました」