バッハとシェーンベルクを中心とする西洋音楽史を講じ、現在は明治学院大学名誉教授、そして指揮者としても活動する樋口隆一氏。その樋口氏の祖父が、2万人のユダヤ人を救った“もう一人の東洋のシンドラー”と呼ばれる樋口季一郎陸軍中将。
この連載では、樋口季一郎が半生を通じて「ロシア独自の侵略観とは何か」を学んでてきた過程を、一見おもしろおかしく綴ってきた記録でもある回想録から、大正十四年(1925)、ポーランド駐在武官としてシベリア経由ワルソーに赴任した期間を抜粋。
国際寝台列車でモスクワに向かう道すがら、文化の違いを目の当たりにしたり、寝棺に横たわるレーニンを見たりした樋口。寝台列車は目的地、ワルソー〔ポーランドの首都ワルシャワの英語名〕に到着した。
先輩に負けたくない一心でポーランド語を勉強
私が東京でポーランド行を準備していた頃、私は先輩の山脇少佐に伴われて、麻布の後藤新平子爵の家から程遠からぬポーランド公使館にパテック公使を訪ねた。公使は弁護士上りの、ピルスツキー元帥の親友で六十四、五歳の老人であった。
山脇は、彼とポーランド語を通してさかんに話している。パテック公使は私にロシア語で語ってくれた。
私のロシア語は三年間のプラクチカの空白期間のため、甚だ怪しいものであった。山脇はロシア語でも私の足らぬところを補足した。パテックが時々フランス語を交えても、山脇はそれに立派に受け答えが出来た。私は驚いた。そして私のこの不充分な語学力で、果して役に立つかどうかを自ら疑い、まったく自信を失った。帰途山脇に私の不安を訴えた。彼は「なーに、半年も経てば何とかなるよ」というのであった。山脇は一九一八年ポーランド独立とともにポーランドに入国したものであり、当時彼は一大尉に過ぎなかったが外国武官としてはフランス人に次ぐ古参者であったであろう。山脇はポーランド人の上下より大変な信頼と敬意を受けた。インテリ、社交人にして山脇を知らぬものはないほどであった。
私と交代した前任者岡部は山脇ほどの達人ではなかったが、それでもポーランド語を立派に駆使しフランス語も相当であった。ロシア語、ドイツ語はいうも更なりであった。私は前、前々任の二人の先輩に負けない勉強をすべく心に誓った。着任早々、私はポーランド語の勉強を始めた。
ポーランド語と大ロシア語はどれほど違う?
ポーランド語はスラブ系の言葉であるからロシア語によく似ている。しかしポーランド人はロシア語とポーランド語とは全然異質の国語だと主張する。ウクライナ語(小ロシア語)と大ロシア語(モスクワ中心の言語)との関係は、大ロシア語とポーランド語との関係と同様であるが、大ロシア人は小ロシア語を単なる大ロシア語の方言に過ぎないと主張する。この筆法をもってすればポーランド語もまた大ロシア語の一方言と見做し得るわけである。
さてそれでは、ポーランド語と大ロシア語とはどれほど異なっているか。私の住所は聖十字(街)三〇(番地)である。それは、ポーランド語では、シュウェント クシスカ トゥシデションチであり、大ロシア語では、スウャターヤ クレスティウャヤ トゥリッツァツチである。似ていることはたしかであるが、相当に異なってもいる。
スラブ人種の発祥地がモスクワ及びその以北の森林地帯なりとの人類学説を承認する限り、ポーランド語は大ロシア語の一ディアレクトたることは間違いないようである。
さてかくのごとくポーランド語がロシア語(大ロシア語)に似ていることが、はたして私の今の勉強に対しプルスなりやミヌスなりやといえば簡単には断ぜられないのである。私は二週間ぐらいでポーランド語の教科書を一巻あげ、又二週間で第二巻を終了し、一カ月で大体ポーランド語を一応大観し得たのであるが、混淆すること夥しいのであって、ある意味ではロシア語が非常に妨害するのであった。そして又反対にポーランド語が私の未完成のロシア語を妨害することをも発見したのであった。そこで私は一応ポーランド語の学習を打ち切り、もっぱらフランス語を学習せんと決心したのであった。それは正に私の二人の前任者に比し、私の能力の低いことを物語っている。