フランス語に舞踏会、困惑する樋口
私のフランス語の先生はマダム・スレズネスカと呼ぶ旧露都ペトログラード貴族出の、五十過ぎの肥っちょの婦人であった。私は毎日彼女につき二時間宛勉強した。この頃時々、外交団、地方有力者からレセプション、お茶、又は午餐、夕食等に招待を受けたが、その招待状は九〇パーセントがフランス語であり、一〇パーセントがポーランド語であり、それ以外は英、米、独であった。そんな関係で私のフランス語勉強には強い拍車がかけられていた次第であった。私は冬の社交シーズンまでぜひ、日常会話に不便でない程度まで進歩したいものと祈ったものであった。
ある日私は、レセプションの客となるべくあらかじめフランス語で日常会話を棒暗記した。最初は驚くべく好調であった。ところで話が少々入り込んで来るとさっぱり判らぬ。私はせっぱつまって「あなたはロシア語、又はドイツ語を話されるか」と問わざるを得なかった。相手は大抵「否ノン」を答えとするのであった。私は寂しく次の相手を探すのであった。否、次の相手の来たらざるを祈るのであった。
レセプションよりも困るのは舞踏会であった。私は舞踏会に招待を受けて行かぬわけに参らぬ。行けばダンスをせねばならぬ。私は怪しげなワンステップぐらいは踏めたが、ワルツが絶対に必要である。それがうまく出来ない。下手なことをして他人のダンスを妨げたり、女性を転倒させたり、床上で滑ったりしてはそれこそ二重三重に恥をかくこととなる。そこで自重しがたい性格の男も自重せざるを得なかったのである。いろいろの男女が近づき来たり「プルクォア ヴー ヌ ダンセー パー?」等と話しかけてくると、私は「残念ながら私はダンスが下手です」と答えざるを得ない。近づいて来る婦人は私の「ジェ ロニール ドゥ ヴー アンウィテーア ダンセー」を期待するのでもあろう。それが思うに任せぬ。何と寂しきことであろう。
遂に私の決心は三転した。私のゾチアル・レーベン【社交生活】においてはポーランド語よりもフランス語よりもはたまたロシア語、ドイツ語よりもダンセーがもっとも重要だ。ひとつおれはダンスの名人になってやろう。そうなれば人を訪問しても、レセプションでも、昼食会でも、夕食会でも、バール(舞踏会)でもそれの話で大部分の会話は足りるであろうし、特にバールでは一語も語る必要はない。「紳士語らず、脚をもって語らしむ」ということになるであろう。
そこで私は私の秘書であるポーランド人ミシケウィッチに命じてダンスの先生を物色させたのであった。彼はワルソーのオペラ劇場付バレー教師を私に紹介した。私は彼の指定する時間に彼の指導を正式に受けることとした。
私の右に出る「踊り手」はいなかった
第一日は脚をまげることなく歩むことであった。第二日はアン・ドウ・トロアと三拍子で前進し、後退することであった。第三日は右廻転の歩法などであった。彼は私にワルツの歩法を正式に教授せんとしつつあるのである。それはワルツが舞踏の最高の曲目であり、音楽もよければ舞踏としても典雅なものであるからである。そればかりでなくワルツに達すれば、シュミ、ワンステップ、ツーステップ、フォックストロットなどは朝飯前の曲目に過ぎないからであった。当時は、パリ辺りではタンゴーが流行を始めていたが、ワルソーでは社交界においてそれは見られなかった。最も難しいものはボストンとされていた。
私は右廻転に関する限り一人前になった。相手をかかえて右廻転しながら部屋を右廻りする歩法に熟達した私は、相手を左へ廻転せしめつつ部屋を左方へ廻転し舞う方法にも心配がなくなった。更に進んで、相手を右に廻転せしめつつ部屋を左廻転し、又相手を左に廻転せしめつつ部屋を右廻りする歩法も自由となった。歩法がここまでくると自在無む碍げで、百組もの大舞踏会でも何らの心配もなく、他人に妨げられてもそれを避けることが出来、自ら他人の動作を妨碍するようなことがない。これを他方から見ると、まさに神芸に達した名ダンセウルである。それまでに私は一カ月を要した。それから後は簡単な、他の平易な舞踏の種々を習得すればよいのであるが、それは結局ワルツ歩法の変化に過ぎなかった。かくて私のこの勉強は二カ月にして一応卒業となり、教師は私の大なるタレントを誇張なく賞讃したのであった。
それ以後の私のワルソー生活には自信がもたれ、不快なことがあまりなくなったのであった。「デア タンツ ハルフ ミーア」[舞踏が私を助けた]である。