樋口季一郎のダンス熱がさめた理由

その年の暮、英国大使館でマスケンバール(仮装舞踏会)が準備され、日本公使館にもぜひ賑々しく皆で来てくれと特別の注文があった。

仮装舞踏会 イメージ:きぬさら / PIXTA(ピクスタ)

当時代理公使は黒沢二等書記官であった。彼は元来非常に真面目な、慎重な人物であったがこのバールに対しては大変な張り切り方で、彼は右半面を白装束で左半面を黒装束にする計画であり、顔も足の靴もそれに一致せしめた奇抜なものであった。私にも奇想天外な変装を要望した。私は私のダンスの先生の仲介で、マダム・バタフライに使用する日本人のチョンマゲのカツラを借り受け、私の顔、首は特に濃厚な黄粉で超黄色人に作り上げた。そしてオペラの道具としての日本刀、袴、裃で立派な日本のサムライとなったのであった。

▲海外の人が想像するサムライ イメージ:Josiah / PIXTA

この仮装舞踏会は午後十一時頃始まったが、午前一時頃まで何人もその「サムライ」を私と判定したものがなかった。それは、日本人が日本人に仮装すると何人も考え得なかったからである。最後にワルツの曲目の番組において、英国の参事官夫人の非常に舞踏の上手な人が、それを私と判断したのであった。それは私が彼女を招待して踊った時に私が調子に乗って、右廻り左旋回、左廻り右旋回とあまり人の踊らない又下手な婦人ならば脚をもつらすような、やや高度のワルツを演じたからであった。私は語学よりも明らかに舞踏家として若干のタレントを持っていたと自負し得るでもあろうか。明らかにダンスは私を孤独より救ったものであり、私の計画は図に当ったものといえよう。

私は多くのバールにおいて花形であった。各国大公使附武官の内では私の右に出る「踊り手」はなかった。外国の婦人は、仮に私と踊りたいとしても、先方から直接それを要請することはない。プライドというよりも、それはむしろ一種のエチケットとみるべきである。必ず彼女の男友達を通じて彼女をアンウイテー【招待】せしむるのである。

あるバールで右のような手順を経て、私は一人のマダムを招待した。否、実は彼女が私を招待した。私は私の特技をもって彼女を魅了した。彼女いわく「私はスペインのロアと踊る光栄を持つかのごとき喜悦を覚ゆる」と感謝したのであった。ロアとはよくぞ申しける。色の黒いロアなるかな。

「貴殿は色の黒い人種だね」をコンプリマンの真綿で包めばこのような言葉となるものか。我々にはこのようなうまい言葉がどうも日本語においては出ないものだ。

さて娘盛りの嫁入り前の美女と踊ることは楽しみでもあるが、もし図々しい肥満の老マダムと儀礼的に踊らねばならぬときは楽どころでなく、それは重労働である。

肥満型といえば、私は肥満型日本婦人のタンツに関する相当面白い一挿話を知っている。その場所は、今独立に悩むオーストリアのウィーンである。しかしてこのエピソードの私への語り手はウィーンにおけるY中佐であった。「O」氏が、若くして駐オーストリア公使館附武官の頃、そこの某夫人で大変肥満型の人がいた。そしてなかなか「タンツ」をお好みになる。「O」氏はやむなき任務上いつも重き彼女を抱いて衆人の前に歩を運ばねばならなかった。サロンのモザイクの床は油であまりにも滑らかに磨かれている。エナメルの靴底も相当滑らかである。「O」氏のこの晴れの出場は観衆の注目の的であったであろう。事実「O」氏には私ほどの技術がないのであるから、自ら一人転倒することなく起立していることが既に一苦労ではなかったか。そこへもってきての「重量挙げ」である。彼の心中察するにあまりありというべきである。

舞踏すること何秒か何分か、この一組は満座の中で女性を下位に男性を上位にして転倒したのであった。この大活劇のあった直後、モザイクの床の上に何ほどかのフリュッシヒカイト[液体]が認められたのであった。司会者の一人が「誰かシャンパンをこぼした」といって、拭い去ったというのであった。罪なるは「O」氏か、はたまたアンバッサードレスであるか。

さて私をも苦しめた肥満型の連中が、逐次可愛いらしい十八、九の処女たちに変った。私の生活は一歩誤ればドン・ヂョアンニの一歩手前であった。ところが私をして彼女らを招待せしめんとする張本人が、彼女らの母親連中であることを知った。私のごとき「名人」と踊る彼女の娘たちは衆人の注目を浴びるわけである。特にその相手は名人であり、色はめっぽう黒く背も低い、脚と胴の比率も尋常でない。注目されるに充分である。かかる条件の下における私の役割は何であったか。

私のダンス熱は日に日にさめていかざるを得ないのであった。

※本記事は、樋口季一郎​:著『〈復刻新版〉陸軍中将 樋口季一郎の回想録』(啓文社:刊)より一部を抜粋編集したものです。