『さんまのお笑い向上委員会』のモニター横などに出演しているヤジマリー。。普段はホクロ占いで知られる宮本和幸とコンビ「スカチャン」として活動しているが、これまでの半生を語ったトークライブ『矢島啓太がヤジマリー。になった日』が、芸人たちの間で話題となっているという噂を耳にした。

塞ぎがちだった小中学時代から一変し、高校時代は生徒会長に選ばれたほか、学校中の人気者になった。本人曰く運の良さで、数々のハプニングも回避して、人生を切り開いていった。

ここでは、思わぬ手段で面接に挑んで合格を勝ち取った大学受験、そして芸人になってからの出来事について語ってもらった。

▲ボケずにありのままに、これまでの人生を語ったところ大反響

大学推薦入試の面接で鋼のメンタルが炸裂!

――大学推薦入試の面接のお話もびっくりしました。面接会場へ入室して、くるくるとターンをしながら席までたどり着き、アピールとして『硝子の少年』を踊ろうとしたと。

ヤジマリー。 思い出したくないですね、あの面接は。芸人になってから数々スベってきましたけど、人生でいっちばんスベったのはあの面接です。僕の中では『硝子の少年』を踊りきって、先生方から拍手をもらえると思ってたんですけど、すぐ帰らされたから最後もくるくる回って……やけくそでしたね。

なぜか合格できたんですけど、3年で入ったゼミの先生がそのときの面接官だったみたいで。飲みの席で「お前が入ってきた瞬間、先生たちは全員バツにしてすぐ帰らせたんだけど、学長だけが二重丸をつけたんだよ。これからの時代はこういう生徒がいてもいいって」と教えてもらいました。本当にラッキーでした。

――ただ、大学では高校のように人気者になることはなかった。

ヤジマリー。 僕の周りにいたのは、柔道の推薦で入ってきたヤツだったり、『爆笑オンエアバトル』のエンディングテーマを歌っていたタオルズの1人だったりで。僕は、それまで誰かの真似事をしていただけだったので、本当にすごいヤツらと出会って萎縮しちゃったんです。

通学に2時間半かかっていたというのもありますけど、サークルも楽しくなくて。大学=テニスサークルだなと思って入ったけど、フタを開けたら酒をただ飲んでるだけ。すぐやめました。

ただ、華やかな高校時代が忘れられなかったんでしょうね。長期休みは長野に帰って、地元のホールを借りて無料で観客を呼んで、出し物をやるようになったんです。ホール近辺の家に“こういうライブやります”っていうチラシをポスティングして……夏休みも冬休みもやってたんじゃないかな。

▲大学での顔と地元での顔を淡々と振り返る

――自ら会場を借りてライブをやるのは、並大抵の気持ちではできないと思います。出し物はどういったことをやっていたんですか?

ヤジマリー。 相変わらずジャニーズですよ(笑)。当時、嵐が今より人気になる前に、ほとんどの人が知らないであろうアルバムの曲をやってました。長野県民は優しいから、100人くらい見に来てくれたんですけど、お笑いはパクリだし、知らない曲で踊ってるし、僕が人を泣かせたいと思って書いた感動ドラマみたいな芝居もあって……僕の親は泣いてましたけどね。みんな、何を見せられてるんだ? と思ってたんじゃないですかね。

――何度か開催しているうちに、噂を聞きつけた地元のケーブルテレビから「ドキュメンタリーを作りたい」というオファーが来て、実際に制作されたんですよね。

ヤジマリー。 そうなんです。1日8回、地元の上田市のケーブルテレビで流れてました。そのケーブルテレビのサテライトスタジオみたいなところが、上田駅のメインストリートにあって。担当のディレクターさんから「ラジオやりませんか?」って声をかけてもらって、長期休みのあいだだけラジオもやらせてもらってました。