検事長定年延長問題やコロナウイルス対策をめぐり、閣僚や官僚が繰り返す「おかしな答弁」。もはや誰が聞いてもおかしいと気づくレベルであるが、こうした状況に陥る背景には、日本という国が「体育会系のノリ」で動いていることにありそうだ。心理学をもとにした教育講演・企業研修を行う榎本博明氏に話を聞いた。

※本記事は、榎本博明:著『体育会系上司』(ワニブックス刊)より、一部を抜粋編集したものです。

上意下達が思考停止を招く

企業からも好まれていることからしても、体育会系にみられる心理的特徴には好ましいものが多いように思われる。

だが、体育会系組織の不祥事が表面化する事例が後を絶たない。体育会系の組織は、一般に上意下達、上には絶対服従の世界である。それが礼儀正しさをもたらしているわけだが、何でも上の判断に任せる姿勢が思考停止を招くことになりやすい。

私が体育会系の世界を生きるある人物に、「あの人(その人の上司に相当する人物)の言うことに逆らったら、どんな感じになるんですか?」と尋ねたところ、「怖ろしすぎて考えたくありません」と言われた。逆らうことなど許されない、あり得ない、指示されたことはすべてそのまま受け入れるしかない、ということなのだろう。

上意下達が思考停止を招く イメージ:PIXTA

上の判断に任せるしかないため、いちいち自分で考えてもしようがない。自分で考えれば、何か言いたくなる。だが、それは許されない。上の意向を受け入れるしかない。そうした状況に適応するには、自分の頭で考えるのをやめるしかない。そうでないとイライラしてしまう。

企業の人事担当者が体育会系に所属していた新卒者の特徴として、最もよく口にするのが「人当たりの良さ」だというが、それは上下関係が厳しい体育会系組織の中では気配りができないと生きていけないため、気配り力が磨かれるからだろう。

「忖度」は決して悪い意味ではない

その気配りが、ときに行き過ぎてしまう。忖度の行きすぎが招く不祥事は、とくに悪意によるものではなく、こうした心理的特徴によるところが大きいのではないだろうか。

官僚の官邸に対する「忖度」があったかどうかといった政治家絡みの問題が、ここ数年国会でしばしば議論され、メディアを賑わしていることから、「忖度」という言葉は非常に身近なものになっているとともに、何か悪いことであるかのような印象がもたれているように思われる。

ただし、「忖度」という言葉は、元々はそんな悪い意味をもつものではない。『広辞苑』(第六版 岩波書店/2008年)で「忖度」を調べると、つぎのように解説されている。

(「忖」も「度」も、はかる意)他人の心中をおしはかること。推察。「相手の気持を忖度する」

また、『日本語源広辞典』([増補版] 増井金典:著 ミネルヴァ書房)では、「忖度」の語源について、つぎのように解説されている。

中国語で「忖(思いはかること)+度(はかる)」が語源です。他人の心の中に思っていることをあれこれと推し量ること。
例:病床の先生の心を忖度するしか方法がない。

このような辞書的定義をみればわかるように、じつは「忖度」そのものは、けっして悪いことではない。相手の気持ちや立場を配慮することは、日本社会においては、むしろ望ましい姿勢と言える。

相手の気持ちや立場を配慮せず、自分の気持ちや立場のみを基準にして行動するとしたら、それは非常に自分勝手なことになるだろう。

欧米社会において争いごとが多く、何でもすぐに訴訟問題になったりするのも、「忖度」というものが機能せず、だれもが自分基準に行動し、自分勝手な自己主張をするからに他ならない。その意味では、「忖度」を大事にする日本的コミュニケーションこそが、争いごとが少なく、平和で治安の良い社会をもたらしていると言ってもよいだろう。

自分勝手な主張は見苦しいということで相手が遠慮してあえて要求しないこと、こっちに負担をかけては申し訳ないという思いから相手が口にしない思いを「忖度」し、その要求や思いを汲み取ってあげるのは、温かい心の交流にとって大切なことである。