社交なくして仕事はありえないが・・・

モスクワ発の汽車のワルソー駅に着くのは朝の五時か、六時である。普通の人でも五、六時に起床するのは日本の生活でも珍しい。ところがヨーロッパ人の、しかも有閑階級の生活は夜ふかし朝寝坊である。

郷に入りては郷に従えで、私の生活もそれであった。また、それでなければこちらは神経衰弱になるであろう。私のこの生活を脅かすものが、モスクワ発の列車である。内地から、またモスクワから、私宛の紹介状をもった旅行者は、私が今「白河夜舟」〔しらかわよふね:ぐっすり寝込んで何もわからないこと〕とも知らず、また知っていたとしても、真っ先にに私の宅を訪れるのであった。

最初、私は異境を旅行する人の心寂しさ、同胞に対するなつかしさを思って無理にもそれに接し、あるいは旅館を世話し、あるいは昼食を私の宅で共にした。しかし、このような親切は永くは続かない。私の健康に差しつかえることを知った。

私は智恵を働かした。「私は昨夜の仕事で今日は朝寝をする。十一時頃、改めてお訪ねください。ワルソーにお泊りになるのであれば、ここに備えつけてある私の紹介状を持ってホテル何々へお出でください。自動車、お車、いずれのショッファーも皆知っている筈です」という文句をガリ版に刷って置いて、中から手渡したのであった。そして、それは成功であった。

妻は、私のこの仕打ちに不満足で、甚だ誠意が足らぬと思ったらしかった。そして、私の眼の覚めるまで彼女が応対し、世話するのであった。ところが十一月に入り、ぼつぼつ社交期となり、私どもが午前一時、二時、時として五時頃帰宅するようなことも少なからずあるとなると、内地的親切には限度があり、やはり私の名案を認めざるをえなかった。世話をせぬというのではない。私に睡眠時間を与えよというのであった。

ワルソーにおける善悪二面における私の生活は、私の仕事の面において多くの経験を与えた。また、それに伴って私のなすべきことが多くなり、研究すべき問題の量が増加した。私は社交に重圧を感じた。社交なくして仕事はありえない。そこに矛盾を感じた。

そこで、私の社交的任務の九〇パーセントを妻の任務として転嫁した。彼女は必ずしも私を必要としない普通の茶会、レセプションなどへは単独で行くこととなった。また彼女は単独でそれを立派にやり遂げた。私の時間は、そのために多くの余裕を得た。

私の家内は、ただ内助のみならず外助をも完遂したのであった。彼女の心臓の功徳である。

▲ワルシャワ時代の樋口夫婦 出典:〈復刻新版〉陸軍中将 樋口季一郎の回想録

※本記事は、樋口季一郎​:著『〈復刻新版〉陸軍中将 樋口季一郎の回想録』(啓文社:刊)より一部を抜粋編集したものです。