樋口季一郎陸軍中将がポーランド駐在武官時代に経験した1926年のポーランド五月革命。この騒動に参加した戦車隊、航空隊、歩兵隊の三青年将校が彼の家に集まり、それぞれが語った胸の内とは?
ポーランド陸軍の生じた二つの派閥
ポーランド陸軍は自力で、フランス顧問団の援助なくして大演習を行い得るまでに成長した。しかしこの反面、ポーランド陸軍の上層部に二個の派閥が生まれ、かつ発達しつつあった。
二大派閥の一方の旗頭は陸相のシコルスキー中将であり、他方のそれは当時、閑雲野鶴(かんうんやかく)を楽しんでいたピルスツキー元帥であった。
シコルスキーはウィーンで教育を受けた弁護士出身の軍人であり、第一次大戦の末期ポーランドの独立を目ざし軍人として、政治的策士として活躍したのであり、フランス語にも長じフランス朝野にも連絡があるというわけで、隠然復興ポーランドの政界、軍部に勢力を占め、ついに陸軍大臣にまでなった男である。
当時四十四、五歳の男盛りであった。彼により彼の子分たちは老いも若きもそのところを得た。彼の子分たちは、多くはドイツ及びオーストリア系の軍人、政客であった。
ピルスツキー元帥は若くしてポーランドの独立を夢み、これまた法律方面の学問を、ワルソー大学に学んだと伝えられる。彼はポーランドの東北地方ウイリノの産であり、彼の教養は主としてロシア系統に属すと見るべきか。楽聖ハイフェッツもウイリノの産と記憶する。
彼はその昔、ポーランドの独立運動に連座し、流刑に処せられ永年樺太に過したのであった。第一次大戦でロシアが崩壊すると、彼はいち早く日本経由の海路で祖国に還り、ピアノの巨匠パデレフスキーと提携してポーランド再興のため粉骨砕身した。しかし、彼が帰国したときのポーランドはドイツ勢力の下に喘いでいた。
ドイツ軍は彼を危険人物としてワルソーのチタデル(要塞)の地下室に監禁した。
ドイツの全面降伏とともに、彼もまた世に出たのであった。国民は彼を「祖国復興の父」として尊敬し、彼は元帥になったのである。彼の独立精神は極めて強烈であり、ポーランド人の上下はこぞってフランス文化の謳歌者であるにもかかわらず、彼は必ずしもフランスを深く尊敬せず、フランスの顧問団の存在には愉快を感じ得なかった。
政治、軍事全般にわたる権威を持ったピルスツキー
大正八年(1919)ソベートロシアは、新興ポーランドに宣戦を布告し、ソ軍は怒涛の勢いをもって首都ワルソーに向い進軍して来た。ソ軍の総軍司令官はトロツキーであった。ブデョンヌイ元帥が、騎兵下士官たる昔の「キネヅカ」をもって、カルパーテン北側より大騎兵集団を率いて西進したのであった。この作戦にウォロシーロフも、もちろん参加したものと思われる。
八月十四日がポーランドにとり最大の危険日であった。同日、ソ軍はラジミンに浸入し、十五日ピルスツキーのところでチョコレートを飲むと豪語したと伝えられている。当時、ポーランドの軍隊は建設の途上にあり、未完成の域を脱していなかった。
個々の装備は完成に近かったとしても、部隊の大部分は烏合の衆に近き実態を呈していた。ピルスツキーはかかる未完成の軍隊を率いて、決然トロツキーに当たらねばならなかった。フランスのウェイガン将軍がピ元帥を補佐したことは当然であった。
ソ軍はグロドノ方面、ワルシャワ東方及び東南方に兵力を配置し、ポーランド軍を東プロシャに圧迫する態勢において進軍した。ピ元帥は四、五個師団の兵力を抽出し、それをウイスラ河東岸の遙か南方に控置し、首都めざして西進するソ軍の側背に一大攻勢を敢行し、大勝をかち得たのであった。
私の先輩である山脇(後の大将)は当時、大尉であった。彼は一日ピ元帥に招かれて、この大作戦の構想について意見を求められたのであり、ピ元帥は、よく若き山脇の言を容れて戦勝をかち得たと、かの地において伝えられている。
それはもちろん、山脇の卓越せる智性の致すところであるが、他面、ピルスツキーが日露戦争の戦史を深く研究し、日本の戦略に関し相当の造詣があり、このソ連との戦いに奉天会戦の日本の作戦構想を応用せんとする山脇戦略に同調した結果であろう。
かくして、ピ元帥のポーランドにおける政治、軍事全般にわたる権威は決定的となった。不遇に悩むロシア軍系将軍が、ピ元帥を担いで一旗挙げようとするのも自然の成り行きだったかも知れぬ。
ピルスツキーはワルソー郊外、都心より三里ばかり離れたウイスラ河右岸の別荘地ヴィラ・ノヴァに起居していた。当時、彼の静かな生活は政客、軍人の訪問のため甚だしく妨げられており、市中には種々の流言が飛んでいた。
「カフェー」などでカフェーを飲んでいると、「不届きなる現政府を倒せ」などというビラが撒かれたりした。市民はピルスツキーとシコルスキーの正面衝突を予想した。それでも、それは平和的方法で行わるべく、まさか武力衝突まではならぬであろうと考えられたのであった。
大正十五年(1926)四月の、梅、桜、桃の咲く頃であったか。一夕、ヴィラ・ノヴァのピ元帥の隠宅付近に一発の銃声が聞かれた。それが二発となり十発となり、百発となり、遂に大変な混乱を生んだ。
ピ元帥の身辺を慮(おもんぱか)り、陰に彼を護衛していた十人ばかりの青年将校が、約一個小隊ばかりの正規軍の奇襲に対戦したと伝えられた。「ピ元帥危うし。速かに彼の身辺の安全を確保せよ」との檄が、電話で、電信で各地へ伝えられた。それが奈辺から発せられたかは、その後といえども遂に世上に知らされなかった。
ワルソーには二個師団ばかり、市内及びその周辺に屯ろしていた。これはシコルスキーの最も信頼し得る軍隊であった。即ち政府軍である。トルン、ロッズ、ビアリストク、ルブリンその他田舎の師団は六、七〇パーセントが不平組であり、親ピ分子であった。
同じゲルマン民族であっても、不思議とドイツとオーストリアは、その気分なり気風が違っている。
ドイツはむしろオーストリアよりも田舎型である。オーストリアはあまりにも芸術型であり、反軍事型である。従って、旧オーストリア型で固めたシコルスキーの軍容は、このクーデター戦においては甚だ頼りにならぬものであった。
旧ロシア型の師団の大部、旧ドイツ型の師団の一部が続々ワルソーに向って急遽、進軍を始めた。シコルスキー陸相の意をていした参謀本部長の命令は、既に権威を失っていたのであった。なんとなさけない統帥であり統帥権であったことか。