若く見られる妻に浴びせられる質問

妻がポーランドへ来て喜んだのは、公使館のチョンガー連(独身者たち)であった。彼らはいつも下宿で西洋料理を食べさせられているのであるから、常に和食に対するイマジネイションを持っている。妻は彼らの夢を実現せしめた。あるときはゴモクメシ、あるときは薩摩汁とリース(飯)、漬物である。少なくも毎土曜日、彼らは「招かれざる常客」であった。それでまた私どもは大いに慰められた。私も助かった。

彼女がポーランドへ来た目的は、ただ私のための“フェメ ド チャージ”に止まるべきではない。

それは単なる内助であるが、更に進んで外助にまで進歩すべきであった。それがためには社交のための準備をなすべきであった。要は語学とダンスの研究であった。

彼女の英語はきわめて初歩であった。こんなことになるならば、女学校で、はたまた内地でもっと英語の勉強でもしていたらよかったという。それは「もっと勉強していたらおれだって……」と強がりをいう怠け者と同一軌道を歩んだことになる。人間の勉強は単に功利的であってはならない。

それがいつ役に立つかは問題ではない。私どもの勉強する目的は「酔生夢死から免れるため」のものである。それがたまたま実際に役立つことがあるだけである。役立てば幸福であり、役立たずとしても人生を豊かにすることは間違いない。

今さらかかる哲学を云々する余裕はない。ただ英語を学ぶべきであった。彼女はケンブリッジ大学に学んだポーランド人のインテリ婦人について勉強した。来客があったり家事にかまけて、よく宿題をすっぽかすことがあったらしい。

「アイ アム ソリー」が女教師の言である。家内はそれにもまして「ベリー ベリー ソリー」であったようである。それでも彼女の英語は目に見えて上達した。レセプションなどに出ても、あなたはフランス(ポーランド語)ができるかと問われれば「ノン マダム メー ジュ パル アングレー エン ブュー」などと言って、それから英語のブロークンでお茶を濁しえるまでになった。

「あなたは幾人の子どもを持つか」
「三人」
「オーベリーマッチ ハウ オールド アー ユー?」と聞かれる。

いったい西欧人間で年齢を聞くことはエチケットに反するのであり、それは充分にも十二分にも知っているのだが、この場合思わず出る質問であり、別に妻に対する侮辱でもないようである。

それは家内が小柄な女であるため一層若く見えたのであり、人々は家内を二十歳そこそこにみていたようである。そこで三人の子持ちとあらば「十四、五歳で結婚した」ことになる。ここに彼らの興味があったかと察せられるのであった。

中古スポーツカーで妻とドライブへ

ことダンスに関する限り、彼女は常傭家庭教師を自宅にかかえていた(即ち私である)。彼女は幸福にも毎日、基礎学より学んだのであった。かくして、その年の社交シーズンに入った頃は、彼女は立派な社交夫人たりえたのであり、多くの女友達を得たのであった。特にポーランド婦人が好んで彼女に近づいた。

そのなかの一人にウォジンスカ伯爵夫人があった。彼女は当時、京都の某宗教大学の海外留学生としてドイツやポーランドに遊学中して、ついにこの地に落ちついた梅田君から日本語を学んだのであり、日本語で妻と話すことを無上の誇りとしていた変り者であった。

我々日本人が、世界の到るところでいつもこのような光景を常態としえるのであれば、我々の海外生活はいかに快適であろうか。

伯爵夫人ウォジンスカはピアノが得意であった。彼女は有閑マダムであるから、毎日でも私の宅へ遊びに来たいのであった。その方法として彼女は盛んに妻にピアノの修業を勧奨する。妻は私ほどノートの解読に苦しまなかったようであった。彼女は、この押しかけ先生を師と仰いで大いに勉強したのであった。

ところが困ったことに、同じアパルトマンの別室に一人の歌姫がいて、絶えず鶯のようなソプラノで歌うのであったが、妻のピアノの力は永久にこの歌姫の伴奏をしえなかったであろう。

▲中古スポーツカーで妻とドライブへ イメージ:Zarya Maxim / PIXTA

家内が来て一カ月位も経った頃である。私は友人の勧めでフィアットの中古スポーツ・カーを買って練習を始めた。ほんとに自信がつけば公式に試験を受けるつもりであった。

ところが仕事も多忙である。機械学はドイツ語を通じての独学である。なかなか思うように進展しない。きわめて少時間の実地練習で私は乗り廻したものであった。まだ正式に試験も受けていない。それでも私の車の後尾には「D」なるマークを付していた。ディプロマティーク(外交官)の意味である。

ある日、私は妻を側方に乗せ、郊外にアヴェクのドライブを試みたのであった。少し長距離を走り過ぎたためガソリンの残りが少なかった。なんとかなるだろうと、ワルソーのメーン・ストリートとアレー街との交叉点に差しかかったとき、自動車が突如としてストップしたのであった。

これは大変、前からも後からも右からも左からも電車がつめかけている。チンチンと四方で鳴らしている。「何しているんだ!」「ヤポンチク(日本人)だ」「どけろ、どけろ」である。その辺を通行中の市民も「こいつぁ見物だ」というわけか、八方に通行人が止まり、かつ増えつつあった。

私の頭は、ぼつぼつ冷静を失いつつあった。西洋式即ちレディ・ファースト式に妻を遇することにおいて人後に落ちなかった私も、遂に地金を現わさざるをえなかった。私は叫んだ「おい、降りて後ろから押せ」と。家内も一世一代の重大事だ。

女権も女威もあらばこそ、後ろから押さんとしたのであった。さあ“世論”は承知しない。

「女性の権威と威厳のため、あの車を援助すべし」となった。若い青年がたちまちにして十人ばかり飛び出してきた。車を押し始めた。彼らは口々に「マダム、お乗りなさい」と言って聞かなかった。妻は再び私の側に座を占めた。私はハンドル巧みに公使館へ辿り着いた。

私は各人に一円位のトリンク・ゲルト(酒代)を与えんとしたが、一人の青年は「ありがたいが、私どもはただ当然のことをしたのみです。それはご辞退します」というのであった。私のしたことは必ずしも彼らを侮辱したわけでなく、それは当然のエチケットである。それを彼は辞退した。その青年こそ感心すべき若者であった。他のすべての人々は残念そうであったが、“正”に対し従順であった。

ところがその直後、機械を点検してみるとガソリンはたくさん残っていたのであって、あの失敗は精神の動揺、または過度の緊張のため無用のショックを機械に与えたことに原因するものであり、明らかに私の未熟のせいであった。