昭和二年、匿名で欧州旅行をしていた李王、同妃両殿下がポーランドを訪れた。樋口季一郎陸軍中将がワルシャワの名所などを案内した回想録。あるとき、両殿下のお伴をして、日ポ協会の歓迎式に臨んだ際に通訳をした樋口中将は、お褒めの言葉をいただいたのだが……。
ラゼンキー公園に立つショパン像
昭和二年(1927)秋。李王、同妃両殿下がコンテ・ギン(ギン伯爵)なる匿名で欧州旅行の途次、ポーランドへもお越しになった。私は朝香伯の御旅行とおおよそ同一のプログラムを作った。だが、今回は妃殿下も御同伴であるから、多少柔かい計画を建てたと記憶する。すなわち、いくぶん戦史、戦跡に関するご説明を省略する反面、ポーランド文化のご紹介にも重点をおいた。
私はラゼンキー公園をご案内したと思う。この公園は現在はパルクに違いないが、昔は離宮であって広さは井の頭ぐらいでもあろうか。ワルソー市街の平均標高より五十メートル程も低い低地の森林の中にあった。低地であるから、美しい池がその中央部に作られていた。日本式庭園とは異なり、石のたたずまいなどは問題ではないが、その池畔の古びた旧宮殿との釣り合いは見事であった。池畔に野外劇場の跡がある。
ギリシア、ローマのルイネ[遺跡]に形どった構造である。観覧席も石畳で椅子などの必要がない。またそれが面白いのである。二、三百年前の遺物である。昔、美男美女がギリシア風の装束を着て、隠れた場所で奏でられるオーケストラに伴奏されながら、ギリシャ神話をあるいは歌い、あるいは踊ったことが想像される。
また、その観劇のあとに野外の大宴会が開かれ、美男美女の、いや相当老成せる彼氏彼女らが、正当なる、はたまた不正当なる愛の遊戯を楽しんだことが、夢のごとく私どもの眼前に展開するのであった。
古色蒼然たる、この池畔の風景は、それから二十メートルの曲った坂を上ると一変して近代式の広場となる。この広場にこの国の偉人の像が建てられている。それはショパンのそれである。
ショパンは、その父をフランス人に、その母をポーランド人に持っていた。思うに、家庭教師などのフランス人とポーランド娘の愛の結晶でもあろうか。フランス人は彼をフランス人と見做し、ポーランド人は彼をポーランド人なりとして誇っている。
血縁的には明らかに半々である。だが文化的ないし精神的には明らかにポーランド人なりと言いえるであろう。それは彼が非常なポーランドに対する愛国者であり、祖国国民性の長所を発揮した大作曲家であり、また彼の作品が主として祖国ポーランドに対する愛情を主題として構成されているからである。
彼のポロネーズ、マズルカなどは世界的に有名で優雅でもあり、また雄渾なる舞踏曲でもある。ショパンの銅像は、自然石の積まれたる土台の上に、左手に曲譜の巻物を携えて暴風の響きに聴き入っているかのごとく、外套の裾が風に吹きあおられている形である。
「ブーリヤ」は彼の最後的傑作であると称されている。日本で「木枯」といわれているのが、この「ブーリヤ」にあたるのではなかろうか。ブーリヤ(嵐)と木枯とではちょっと違うようであるが。この銅像はそれの象徴である。
私は妃殿下をザモークにご案内したかと思う。ザモークは錠であり、城であり、この場合はもちろん城を指す。ポーランド王国時代の宮城である。いったい、この「錠」と「城」とが同一語であることに私は興味を持っている。ドイツ語の錠も城もシュロッスである。それは、錠をかけた「住居」が安全であるから、この「安全」なる意義に基づくものでもあろうか。
ワルソーのこのザモークは、ウイスラ河畔にあって、古びた石造りの四角な建物であり、外見は少しも美観を呈していない。特に玄関が恐ろしく見苦しい。一旦、外敵または内敵の襲い来たる場合、それを閉鎖するに便ならしめんとする着想に基づくものであろうか。ところが中へ入るとなかなか立派で、特に大広間のごときは千人も入り得るほどである。
このザモークの廊下に、一基のダブルベッドが飾られている。それは一八一二年頃、ナポレオンがライプチヒからワルソーに来て、これからモスクワ遠征に乗り出さんとしたとき、ワルソーが気に入り相当久しくここに駐留したのであり、某伯爵夫人とわりなき仲になったと伝えられ、このベッドがその遺物なりといわれる。これは一種の国宝ともなっている。