ポーランド生活を助けてくれた友人の思い出

さて翌日、私は両殿下のお伴をして、日ポ協会の歓迎式に臨んだ。両殿下のために彼らは特別の一メートルほどの高さの壇を設け、赤いタピーを敷いてお迎えした。会長某伯爵はフランス語で長々と歓迎の辞を述べた。私は当然、通訳すべきであった。

「我々の尊敬する両殿下、今回両殿下は何千、何万里の陸海御旅行の途次当地までも御訪問に相なりました。私どもは衷心感謝しております。私は日ポ協会の会長として、満腔の誠意をもって両殿下をご歓迎申し上げる次第であります。何とぞ私どもの祖国復興の実状を御観察下され、わが祖国の興隆に御援助賜わらんことをお願い申し上げます。云々」というような内容であった。

いや、それは私の「作」である。私のフランス語はそれほど正確でない。この歓迎の辞の十分の一ぐらいの言葉を、トーチカとして私が作ったものであり、私は前述のように訳了したに過ぎないのであった。殿下はそれに対し簡単に「ありがとう。私は諸君を見ることを喜ぶ」と申し述べられた。私は正に救われたのであった。

この行事終了後、御宿で殿下は「樋口武官のフランス語は大したものですネ」とお賞めの言葉を賜わったのであった。「穴あらば……」の思いであった。

その翌日、私は「ギン」伯爵にお伴して、ロッズの古戦場見学に出発した。案内のポーランド将校はドイツ系であったとみえ、ドイツ語でペラペラと説明を始めた。私はかろうじて幾分かを通訳した。ところが話が込み入って来ると、この付近の戦史に明るくない限り、なかなか容易でない。それは外国語の先生でも楽でない。私には至難であった。

私どもの傍らに、ドイツ駐在武官補佐官の鈴木宗作大尉がいた。私は彼に援助を頼んだ。彼は幼年学校、陸士、陸大の優等生であり、後に中将、軍司令官として比島レイテに散華した人である。二十年この方ドイツ語一辺倒で勉強している。彼は立派に私の醜態をカバーした。しかし、昨日はあのように素晴しくフランス語を駆使して(?)、日ポ協会で名声を挙げた私としては、なんという醜態を示したことか。

▲鈴木宗作 写真:Wikimedia Commons

さて、このエピソードに関連して、私は南雲海軍中佐を思い出すのである。彼は大正十四年(1925)暮頃、欧州見学のため渡欧したが、私の宅にも見え、いろいろ内地の状勢など話してくれたのであった。内地に帰ると、さっそく私の留守宅を訪ね、私のポーランド生活を事細かく話してくれたような人物であり、人格者であった。彼は会津若松の産であると記憶する。

その後、私が帰朝し、東京で勤務したときも、大アジア協会のマンブルとして親しく交わったものである。

南雲は対米作戦の緒戦に、航空艦隊司令長官としてパールハーバーを攻撃したのであり、戦局退勢に向ったときサイパンに赴任したのであった。そして、同島の陸上防衛を主宰する小畑陸軍中将とともに相依り相助け、遂に相携えてサイパンの華と散ったのであった。

李王両殿下のポーランド御訪問直前、駐ポーランド公使佐藤尚武氏は、パリ駐在代理大使として転出し、その後任に千葉書記官が代理公使としてイタリアから着任していた。

彼は千葉県の出身であり、彼の夫人は北里博士の令嬢であった。私が参謀本部第二部長時代、彼は外務省条約局の課長であった。

大戦が日本の敗北と定まったとき、彼はトルコかルーマニアかの公使であり、夫妻相ともに自決されたと伝えられる。彼がポーランドに着任したとき、同伴して来た二歳ばかりの可愛い坊やが「ボン ジュルノ」と私に挨拶したその姿その声が、私の眼、私の耳に未だに残っている。

▲南雲忠一 出典:ウィキペディアコモンズ

※本記事は、樋口季一郎​:著『〈復刻新版〉陸軍中将 樋口季一郎の回想録』(啓文社:刊)より一部を抜粋編集したものです。