ぼく、プロレスファンじゃないんで・・・
テッドさんという人の運転する宣伝カーの助手席に、ぼくは乗せられた。いきなり「おまえさあ、俺のことは知っているよな?」と聞かれる。
「す…すいません。ぼく、プロレスファンじゃないんで」
口ぶりからして、プロレスを見ている人なら知っていて当然の存在という感じだったので、ぼくは気を遣ってそう答えた。
「はっ? プロレスファンじゃないのにプロレスラーになりたいのか? 変わってんなあ。あれだ、タスケに無理やり入れられたりしたんだろ?」
「あ、当たってます!」
「タスケはその場の思いつきで入れちゃうからなあ。まあ、そういう連中はみんな逃げていくんだけどな。俺はレフェリーやっているテッド・ワタベ。テッ・ド・ワー・ター・ベーッ」
社長のタスケさんを呼び捨てにするということは、社長よりも偉いんだろうか。選手じゃなくレフェリーなのに?
テッドさんは、ぼくが疑問に思うようなことを自分の方から話してくれる人だった。それによると、本名は渡部哲夫。タスケさんや運命さんが東北プロレスを旗揚げする前からこの世界で働いていて、会社の運営方法や興行のやり方を教えたのだという。
「あいつらが若い頃から見てきたからな。いいか、プロレスの興行っていうのは選手だけじゃ成り立たないんだよ。レフェリーがいて、リングアナウンサーがいて、当日券を売るスタッフがいる。リングを積んだトラックを運転するリング屋もいる。
前売券を売るには宣伝を担当する人間がいなきゃいけない。営業する者、雑誌などのマスコミにリリースを流す者。でも、ウチは小さい団体だからみんなでいくつもの役割もこなさないと興行ができないからな。で、今から俺はおまえを連れて営業にいくと、そういうわけだ」
説明し終えると、テッドさんは太った胴を強引にひねりながら、後部座席を指差した。そこには山積みとされたポスターがあった。
「今やっているシリーズの最終戦を矢巾という町でやる。その周辺に、このポスターを貼りまくるんだ」
「やはばって…矢巾と矢幅の両方あるやはばのことですか?」
「おまえ、よく知ってるねー、プロレスファンでもないのに」
岩手県紫波郡矢巾町は、地名が「矢巾」なのに最寄りの駅名は「矢幅」と書く。その印象が強くて、憶えていたんだ。
「体育館の名前は“矢巾”の方」とテッドさん。青々とした田んぼに囲まれた町へ着くと、段ボールに一枚ずつ貼りつけて強化したポスターを、電柱や掲示板に固定していく。
また、飛び込みでお店に入り「ごめんください! 今度、東北プロレスの大会が矢巾の体育館であるんですけど、ポスターを貼らせていただけませんか?」と頼む。そのさい2、3枚ほどのチケットを「時間があったらいらっしゃってください」といって、お礼として手渡す。
「ウチに入ってくる人間は、みんなこうやって営業のやり方を覚えていくんだ。おまえも早く一人でまわれるようになれよ」
ハンドルをサバきながら、テッドさんはこちらに視線をやることなく言った。ぼくがチケットをもらった石材屋さんにも、ポスターと一緒に預けて売ってもらったんだろうな。プロレスって、こういう地道な活動のもと成り立っているんだ。
車中でテッドさんは、プロレスに関するいろんな話をしてくれた。半分ぐらいが知識のないぼくにはちんぷんかんぷんだったが、レスラーになった時の心構えのようなものは一応理解できた。
「アンドレは背がデカいっていう持って生まれたものがあるんだから、とことんそれをアピールすればいい。ウチは小さい連中が多いから飛び技が得意だけど、無理に合わせる必要はないからな。おまえにしかできないことをやった方が個性につながるだろ」
「リングへ上がるようになったら、常に四方からお客さんに見られていることを意識しろ。そして反応を読め。最初のうちは試合をやることで精一杯だろうけど、キャリアを積めばそれができるようになる。その瞬間、その瞬間で観客が何を求めているか判断するんだ」
「判断力を養うには、練習生の時点で何をやるのも自分で考えて行動するよう心がけろ。先輩の言うことは聞かなければいけないけど、先輩に言われたことだけをやればいいっていうもんじゃない。そして盗め。みんな自分のことで一杯だから、すべてを教えてくれるわけじゃない。だから自分で見て、盗まなければ身につかない。それでわからないことがあったら必ず聞く姿勢をつけろ」
矢巾町から盛岡市内に戻ると、テッドさんは牛丼屋に車を停めた。そういえば朝から何も食べていない。
「俺がおごってやるから食え。ただし、牛丼は大盛りまで。卵は…まあ、いいか。頼んでいいよ」
気前がいいのか悪いのか、微妙な線引きをするテッドさん。言葉通り、ぼくは大盛りと卵を頼む。
テッドさんは意外にも並盛り。この体で?と思っていると、こっちの考えていることがわかったらしく「ダイエット中なんだよ!」と、ちょっとだけ語気を荒げた。聞くと、体重はぼくよりも多い3ケタ台だった。