「絶対に終電を逃さない女」一度聞くと忘れられない名前のこのライター、初の単著『シティガール未満』が先日発売された。GINZAのウェブ連載を大幅加筆修正し、書き下ろしも加えたこの本は、連載当初から多くの人々の共感を生んだ。
東京で暮らしていて、ファッションやカルチャーが好きだけど、GINZAやPOPEYEに載っているようなキラキラした人にはなれていない。オシャレだねと言ってもらえることはあっても、スナップに載ったことはないし、オシャレなお店に入るのも苦手だし、部屋も散らかっているし、お金もない。かといって無理に雑誌やインフルエンサーの真似事をするのはダサいし、他の誰かになりたいわけでもない。そんな漠然としたコンプレックスと曖昧なニュアンスを込めてこのタイトルを付けた。(本文より)
読むと、誰しもが体験したような、日常の何でもない風景が彼女独特の視点で描かれていることに気づく。同性じゃなくても、東京に住んだことがなくても、共感できるポイントが多い作品だ。
Twitterは頻繁に更新しているが、「絶対に終電を逃さない女」のパーソナルな部分が見えてこない。取材を受けているかどうかもわからずオファーしたところ、丁寧な返信とともに快諾いただけた。
この連載をはじめたきっかけから、書くことを生業にするということ、そして影響を受けた音楽や映画の話まで、多岐にわたって答えてくださった。
ちなみに、便宜上、インタビューでは“終電さん”と省略させていただいた。
終電を逃してしまう人に対して意識の変化
――『シティガール未満』はGINZAでのウェブ連載をまとめられたものだと思うのですが、そもそもGINZAで書くことになったきっかけについてお聞かせください。
絶対に終電を逃さない女(以下、終電) 第1回にも書いたのですが、KOさん(当時はGINZA編集部)から突然連絡をいただいて、そこがきっかけですね。もともと私のTwitterやnoteを読んでくださっていて、GINZAの読者と私のフォロワーが潜在的に近いんじゃないか、とおっしゃってくださいました。
――それはすごい彗眼ですね! 書籍版を出版している柏書房さんは、そのGINZAの連載を見て連絡をくれたのですか?
終電 いえ、それ以前から柏書房の編集者さんとはつながりがあって、その方が制作に携わっていた失恋話を集めたZINEに寄稿させていただいてたんです。それがこの本にも載っている「高円寺 純情商店街」なんですけど……。
――え! すみません、話が前後してしまうかもしれないんですが、この本を読んで特にお気に入りの回のひとつが、高円寺の回で……あれを読んで、男の子側の気持ちを考えてしまったんですよね、面白いと同時に、胸が痛くなって……すみません、完全に個人の感想なんですけど……。
終電 (笑)。
――自分もそういう経験をしたかもしれない、と思わせる表現ってすごいと思っているんです。さらにこういう悲恋や失恋の話って後悔とか懺悔で終わりがちなんですが、そうじゃないのも面白くて。 話を戻しますが、noteに書いていたのが、このGINZAの連載につながったということなんでしょうか?
終電 書籍版に「新宿の相席居酒屋とディスクユニオン」として収録した、相席居酒屋に行った話をnoteで公開したのが2017年で、そこから編集者の方々にフォローしていただくようになって、ZINEなどにもお声がけいただくようになって……という感じですね。
――まず、ご存じない方にはこの“絶対に終電を逃さない女”という名前に インパクトがあると思うんです。 終電さんご自身もTwitterで終電逃した、みたいなツイートをすると、“絶対に終電を逃さない女が終電逃してんじゃねえよ!”みたいに言われるけど、自ら終電を逃す意思表示をしたうえでの終電逃しはいいんだ、と丁寧に書かれてて、面白いなって思いました。ただこの名前をつけた当時と今では、この名前との距離感は違ってきているのではないですか?
終電 ハタチの頃にこのペンネームをつけたんですけど、確かに結構距離感や意識は変化していると思います。「おわりに」にも書いたんですけど、当時は、飲み会とかで“終電で帰る”と言いつつ逃す人に対して、“本当に逃したくなかったら逃さないでしょ、茶番じゃん”と思っていたんです。
――(笑)、面白いですね。
終電 でも、終電を逃したくない、と本心から思っていても、家が遠すぎるとか、本当に忘れてしまうとか……人それぞれ事情があって、本当にうっかり逃してしまう人もいるんだなってわかるようになって、想像力不足だったなと今は反省しています。
――でも、その考え自体は正しいと思いますけどね、そしてそういう芯のようなものが、終電さんの文章からはあふれているように思います。
終電 はい。本当に逃したくないのに逃してしまう人もいることはわかりましたが、やはり茶番の終電逃しというのもあるという認識は変わりません。頭の片隅でうっすら逃してもいいと思っているのに、逃したくない、という意思表示をしておいて、結局終電を逃す。そういう茶番に対してのカウンター意識は今でもあります。
書くことを仕事にできない人は・・・
――個人的に、僕はこの本をある種のシンデレラストーリーだな、 と思いながら読みました。書くことを生業としたいと思っている人は山ほどいて、でもみんな能力や覚悟が足りなくて、生業にはできない。「池袋 ロサ会館のゲームセンター」の回で、終電さんは書くことを仕事にしたことを、“消去法”という言葉を用いて説明していますよね。人と違う生き方はしんどいけど、人と同じ生き方がしんどいこともある、と。
終電 そうですね。
――これを謙遜自慢と取る人もいるだろうけど、僕は決してそう思わなくて、なんなら終電さんはナンパされた描写(「渋谷スクランブル交差点」の回)でも、謙遜自慢に取られないようにすごく気をつけているように見えます。だから終電さんはそんな大した違いはない、とおっしゃるかもしれませんが、それでも僕は、終電さんと、書くことを仕事にできなかった人の間には、大きな差があると思うのです。気が進まないかもしれませんが、その差をご自身で分析するとしたらどう思いますか?
終電 やっぱり、書く仕事が基本的に儲からないこの時代に、わざわざ書くことを本業にしようとする人は、それ以外にできる事がない人や、毎日何時間も書いてないと気がおかしくなってしまうくらい、書くことが好きな人が多いと思っています。
ジャンルもいろいろあるので、一概には言えないんですけど、少なくとも文芸系だと、書くことが承認欲求を満たすための手段でしかない人は、仕事にすることは難しいんじゃないかなと思いますね。プロの方でも、多かれ少なかれ書くことで承認欲求が満たされている部分はあると思うんですけど、それが全てになってしまうと、多くの人に刺さる文章を書くのは難しい気がします。
――まさにその通りだな、と思いました。というのも、終電さんの連載を初めて読んだときに、すごく執念を感じたんです。自分が経験したことや感情を、なんとかして表現として昇華させたい、という類の執念です。自分を誇示するのは、恥ずかしいけど、出さないとやってられないから出している、という感触を得ました。ただこういうエッセイというのは、とても間口が広いと思うのですが、そもそもエッセイというものを、終電さんはどう捉えられているのですか?
終電 そんなに「エッセイを書こう」と思って書いていないです。自然にこうなったというのが一番近いですね。先ほど「執念」とおっしゃってくれましたけど、自分が見たことや感じたことを厳密に表現したいという欲求がなぜかあって。それをやってる、みたいな感覚ですね。
――とても興味深いですね。ご自身のノンフィクションを書いているような感覚なのでしょうか?
終電 そうかもしれません。
――日記とは違いますものね。
終電 そうですね。やっぱり、他人に見せない日記よりも、自分の見たことや感じたことを厳密に誰かに伝えたいという気持ちで書いています。
――どういう人に読んでほしいですか?
終電 うーん、基本的に思わないんですけど……。
――でも、売れるにこしたことはないと思うんです。いま僕がした質問って、本来は愚問だなと思っていて。というのも、商業出版である以上は、ひとりでも多くの人に読まれるべきだと思うのですよね。まあ、それは措くとして、今回のご著書って、誰に宛てたものではなかったとしても、読者に「これなら自分で書けるかも」と思わせる表現になっているとは思うんです。ただ、いざ書いてみると、終電さんとの差に愕然とすることになると思いますが……。
終電 (笑)。でも、そう思ってもらえたらありがたいです。
――そう考えていたので、終電さん自身にどんな方に読んでほしいかな、という質問をお聞きしたかったんですが、それは特定の人に読んでほしいという気持ちが湧かないということですか?
終電 そうですね。おっしゃるとおり、書く以上は読まれたいとは思いますけど、こういう人に向けて、みたいなのは特に想定してないですね。ただ、自分と似たような感性の人って一定数いると思っていて、自分で心から好きだと思えるものを書いていれば、一定数の人の心に届くと信じてはいます。