人生は十人十色ではあるが、済東鉄腸氏がこれまで歩んできた人生は、恐らく誰ともカブることはないだろう。大学卒業後に引きこもり、その期間中に映画を貪るように見続け、そこで「ルーマニア映画」という一筋の光を見つける。そして、ルーマニアに関心を持ち、ルーマニア語を勉強した結果、日本人初のルーマニア語の小説家になり、現地で注目させる存在になった。
そんな異色すぎる経歴を持つ済東氏が、ルーマニア語の小説家になった軌跡を記した著書『千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話』(左右社)を2月7日に発売した。
これからさらに注目を集めることが期待される済東氏にインタビュー。過去から現在に至る経過、そして、この先どこを目指して進んでいくのだろうか。
10代で漱石を読んじゃう俺カッケー
――済東さんはどのような幼少期を過ごしましたか?
済東 受け身な子どもでした。自分から何かやる、というよりは後ろから見ていることが好きで、例えば友達がゲームをやっている様子を後ろから見ているほうが楽しい、みたいな。あとは、とにかく人見知りでした。レストランでも、店員さんに直接オーダーできずに母親にお願いする、ということがよくありました。
――人付き合いが苦手だった?
済東 苦手ですね。人との距離感をうまくつかめず、初対面の人と話す際は「積極的にしゃべろう」と頑張りすぎたり、なれなれしくしすぎたりしてしまい、空回りすることもしばしば……。今もそこは変わりないですが(笑)。
――運動などする活発な少年ではなかったのですね。
済東 運動、体育は本当に苦手でした。体育って「見て覚えろ」みたいな教え方が多いじゃないですか。後々わかるのですが、俺はちゃんと言葉で説明してくれなければ理解できないんですよね。だから、運動はダメダメで中高の6年間は本当にひどかった……。
――子どもの頃の夢はなんでしたか?
済東 小学生の頃は漢字博士になりたかったです。漢字はもちろん、言葉が好きでした。中高時代からは小説を読むようになり、なんとなく「小説家になりたいな~」と。当時は夏目漱石や谷崎潤一郎など読んでいました。とはいえ、夏目漱石が好きだったというよりは、“10代で漱石を読んじゃう俺カッケー”っていう優越感に浸りたかったことが強かったですね(笑)。
――小説家の夢に向かって日々執筆していたのですか?
済東 特に何かしていたわけではありません。あくまで“漠然と”だったので。ただ、そういう気持ちは潜在的にあったため、大学の日本文学専攻に進学しました。
――やりたいことを見つけ、そこに適した学部に進学したと。
済東 そんなときに東日本大震災が起きました。現地の被害状況や放射能に関する報道が連日されて、精神状況が一気に不安定になったんです。
ただ、面白い講義もあまりなく、大学に通って得られたものは何もなかったと思います(笑)。学業を頑張ることもなく、ただただ視聴覚室で映画を見たり、図書館で本を読んだりなど、灰色なキャンパスライフを過ごしていました。
ですので、大学に通わせてもらったのに申し訳ない、という親への罪悪感を常に抱えていたのですが、そんな時期に就職活動が重なったものだから当然うまくいかず……。あれよあれよと転げ落ちてしまい、引きこもりライフが始まりました。
映画はアクティブになれないときに寄り添ってくれた
――引きこもり期間中は何をして過ごしていたのですか?
済東 ひたすら家で映画を見ていました。恥ずかしさやら申し訳なさやらで、かなりメンタルがまいっていたのですが、そのときに酸素や栄養、なにより生きる活力をくれたのが映画でした。あとは、外に出ないのもまずいという危機感もあり、徒歩20分ある図書館にちょくちょく足を運びました。具体的に何をしていたかというと、見た映画の批評をノートにバーッと書き殴るくらいですかね。
――なぜ批評をするようになったのですか?
済東 先ほども触れましたが、俺は言葉にすることで安心感を覚える性分みたいです。「なぜその映画は面白かったのか?」「この映画はなぜつまらなかったのか?」という違和感を言葉にしたかったため、映画批評をするようになりました。
――済東さんが考える映画の魅力とは?
済東 引きこもっているときって、何をやるにも億劫で、外に出たりとか本を読んだりとか能動的な趣味はできないんですよね。ただ、映画は受け身でも楽しめます。なにより、家にいながらでも、いろいろな世界、文化、価値観、職業に触れることが可能。いろいろな映画を見ていれば、“必ず自分の心を揺さぶる一作と出会える”と思っています。困ったとき、アクティブになれないときこそ、映画はその人に寄り添ってくれるので、本当に大切な娯楽です。