嬴政(始皇帝)の悲しく残酷なエピソード

嬴政(始皇帝)の残酷さを示す有名な出来事として「焚書坑儒」があります。中華統一後、嬴政は中国で長く信仰されてきた儒教を弾圧しました。儒学者460人余りを生き埋めにした記録が残っており、世界史の教科書にも必ず載っている政策です。

ここではあまり知られていないエピソードを紹介しましょう。嬴政の母(秦太后)との悲しい物語になり、原泰久先生の『キングダム』にも描かれています。

司馬遷の『史記』を読むと、嬴政の母である秦太后は性格に問題があった人物で、中華統一を目指す嬴政の足を引っ張り続けました。

紀元前239年、秦太后は嬴政に対して反乱(クーデター)を起こします。このとき反乱軍のリーダーに担ぎ出されたのが、嫪毐(ろうあい)という人物です。この嫪毐は低い身分の出身で、なんの能力もなかったのですが、唯一の取り柄が“巨根”でした。

そのため、淫乱であった秦太后の愛人を担当し、2人のあいだには息子も生まれています。秦太后に気に入られた嫪毐は、巨根によって反乱軍のトップにまでのし上がったのです。

『キングダム』においても、嫪毐(ろうあい)は史実の通りに登場します。嫪毐は秦の領土内に「毐国(あいこく)」という独立国を建国して嬴政に反乱を起こす、という形で描かれています。

この反乱の結末ですが、政治的な能力を持たない嫪毐は、嬴政(秦軍)によってすぐさま鎮圧され、毐国も滅亡します。秦軍に拘束された嫪毐は「すべての責任は自分にある」と、最後まで秦太后をかばい続けたそうです。また、秦太后も「私がすべて仕組んだ」と嫪毐を守ろうとしました。

秦太后は軟禁され、嫪毐は「車裂きの刑」によって処刑されました。秦国のなかでもっとも重い処罰になる車裂きの刑とは、手や脚など身体の四肢を縄で縛り、馬に引っ張らせて身体をズタズタに引き裂く処刑方法です。

秦太后は嫪毐とのあいだに生まれた、2人の息子を生かすよう懇願します。『キングダム』では、嬴政の指示によって2人の息子は秘密裏に保護されていましたが、実際には受け入れられず、嫪毐の一族を含めて皆殺しにされました。

▲中国・秦の始皇帝陵の始皇帝像 写真:TN / PIXTA

嬴政(始皇帝)と信長は新しい時代を準備し、また短期政権で終わったところも共通しています。歴史の法則として、時代の改革者は保守勢力の反発を受け、志半ばで挫折してしまいます。そして、このあと保守派とのバランスを重視した人物が長期政権を築くのです。

天正10年(1582年)、天下統一を目前に控えた信長でしたが、明智光秀の謀反によって本能寺で自害します。紀元前221年、嬴政が指導した秦は中華統一を果たします。しかし、わずか15年で秦は滅亡してしまうのです。

豊臣秀吉が死亡したあと、徳川家康は江戸幕府を建てます。保守派の意向をきちんと配慮した徳川幕府は、約260年のあいだ政権を維持しました。中国でも秦が滅亡したあと、劉邦が中国を再統一し、漢王朝が成立します。前半と後半を合わせて、漢王朝は400年以上も続いたのです。

このような歴史的な流れを照らし合わせても、信長と嬴政には多くの共通点があると言えるでしょう。