人気バラエティ番組『千鳥の鬼レンチャン』(フジテレビ系)に出演し、2008年のデビュー曲『home』の大ヒットを知らない若い層にも認知されている木山裕策。会社員として順調に人生を歩んでいたが、甲状腺がんをきっかけに歌手を目指し、夢を叶えることができた。紅白歌合戦にも出場し、彼の運命は大きく変わったが、念願だった歌手活動を始めたあとにも大きな土壇場が待ち受けていたのであった。
パンデミックの影響で、活動の制限を余儀なくされた木山の巻き返し術とは? そして『千鳥の鬼レンチャン』に出演し、お笑い界でトップを走る千鳥とかまいたちからイジられ、Mr.シャチホコに似ていることから「細シャ」と勝手に名付けられ、幅広い層に愛されるようになった現状をどう見ているのか。本音に迫った。
『home』を歌ってるのに多忙で家に帰れない日々
オーディション番組をきっかけに誕生した1stシングル『home』は、ロングセールスを記録。木山は『第59回NHK紅白歌合戦』にも出場したが、それでも仕事は辞めず、平日は会社員、土日に歌手活動を行う生活を続けた。
「本当に忙しくて、3年ぐらいは休みゼロでした。平日は仕事して、土日は歌手の活動をしていたから、家に帰れない。カプセルホテルに泊まることも多かったので、よく“木山さんhome歌ってるけど、家にいないでしょ”と言われていましたね(笑)」
名声を手に入れると、人格が変わってしまう人も多い。真面目に仕事を続けていた木山だが、“欲望”に負けそうになる瞬間は訪れなかったのだろうか。
「子どもたちを育てなきゃいけないし、家族がいると、調子に乗らないですよ。地方営業のときも、スナックに行くことはあっても、キャバクラとか遊びには行きませんでした。『home』を歌ってるのに、万が一、浮気なんてしたら歌えなくなるでしょ(笑)。一番ありがたかったのは、僕がデビューしたからといって、家族のなかでの位(くらい)が上がらなかったこと。僕は失敗ばかりしてるんで、何も変わらないんです(笑)」
会社員と歌手のダブルワークを10年以上続けるなかで、木山はある決断をする。それが「歌手一本で生きていく」という選択だった。
「立ち止まるのが好きで、仕事もキャリアアップするために転職することもあったんですが、50歳を過ぎたとき、会社での仕事って、僕じゃなくてもできることが、いっぱいあるなと思ったんです。一度、死ぬ思いをしたのもあって、“自分しかできないこと”を探りたいと思い、決断しました」
もちろん、家族とも話し合った。
「妻や子どもたちにも“お父さんは残りの人生をかける。もちろん、君たちには迷惑をかけない”と伝えました。それまで家族には、ひもじい思いをさせたことがなかったし、大黒柱として頑張ってきました。ただ、シナリオライターの夢を諦めた人生だったこともあって、子どもたちに“夢を追いかける姿”を見せたかったんです」
会社員を辞めた直後にコロナ禍に・・・
木山は会社員を辞め、この機会に独立することに。1年先のスケジュールも計画的に立てたうえで、2019年12月に独立を発表した。しかし、ここで木山にとって二度目の土壇場がやってくる。新型コロナウイルスのまん延だ。
「僕は本当に間(ま)が悪い人生で……(笑)。どんなに仕事がツラくても会社を辞めなかったのに、なんで今コロナなんだ、と。年明け2月頃には、その年に決まっていた仕事がゼロになりました」
とにかく、木山は前を向くことにした。配信機材はあったため、YouTubeチャンネルを開設。 2020年4月7日に緊急事態宣言が出たあと、11日から2ヶ月連続で毎日配信した。すると、ミュージシャンや視聴者などとつながり、新たな出会いも増えた。
病院で喉のケアをしていると、たまたま隣に座っていたのが由紀さおりだった……という奇跡も。それが縁で、現在では『由紀さおり・安田祥子with木山裕策』名義でコンサートも開催している。
「どちらかというと、引っ込み思案だったんですけど、もうそんなこと言ってられないから、とにかく人と会いました。やっぱり何もしなかったら、そこで終わるんですよね。諦めないで、とにかくやってみる……。ただ、一人じゃ何もできなかった。いろんな方が助けてくださいました」
コロナ前から付き合いがあった全校生徒6名の島根県の小学校からは、サプライズも。「子どもたちにこそ歌ってほしい」と自作の曲を送ったところ、近所の中学生や高校生たちも参加し、合唱してくれたのだ。
「コロナになって、一度、人間は負けましたよね。人間は弱かったんだ、と敗北感があったんですけど、外に出なくても、コミュニケーションツールを使って知らない人たちとつながれたし、ひとつになれた。人間って底力があるなと思いました」
子どもたちの合唱動画をYouTubeにアップした際、新聞に取り上げられたり、木山自身もメディアや番組から多く声がかかるようになったりと、状況が大きく変わった。コロナ禍の3年のあいだに、キングレコードからアルバムを6枚制作し、リリースすることもできた。