奇跡的なアニメ体験をしているはずなのに・・・
――アニメ業界、ファンとの関係性、映像技術、世界観構築のすべてに有機的結合がある、と書かれていて、なるほどと思いました。構造化して見るとは、こういうことなのかなと思います。
氷川 「アニメの本質」については、物理学者の寺田寅彦先生が百年ぐらい前、すでにエッセイで書かれていることが自分の指標です。雑な要約ですが、『映画の中の世界像は平面であり、光と影で構成されていて、我々の現実と似ている部分は少ない。しかし、観客はそのわずかな手がかりから想像力を喚起して映画世界を信じられるものとして、本質的な差違を埋める』(『寺田寅彦随筆集 第三巻』「映画の世界像」、初出:『思想』昭和七年二月)……というようなことが書かれていました。
映画的な驚きとは、この虚構と現実の入れ換えで起きているというんですね。アニメは全部が虚構で構築されていますから、このメカニズムが制御しやすい。だからここで言う「信じられる力」を、今回の新書では「クレディビリティ」と呼んでみたわけです。このように、物理学者のほうが「芸術と技術の融合した映画」の本質に迫っている事例は、とても心強いです。理系の自分としても、まだまだやりようがあると思っています。
――まだ語られていない部分があるんですね。
氷川 世間では不足があることが、自覚さえされていないでしょう。学術も芸術や哲学など文系偏重です。それが気になって仕方ありません。厄介なことにアニメは、作家論とかキャラクター論、ビジネス論などが、過去優先的に語られてきて、そこそこ厚みもあるので、論客・研究者・読者も、そうした固定観念に引っぱられがちなんです。その思考の枠が、もっと大事なことを見逃すことにつながっているのではないか。そんな問題提起です。
アニメを見ている最中は、心の動きが必ずともなう。そこに異論はないはずです。特に世界が違って見えるようになる、生まれ変わりに近い奇跡的な体験も、時にしているはずなんです。なのに、映画館で映画が終わってパッと明るくなると、その体験が消えてしまう。あらすじとキャラクターしか頭に残っていない。テレビを離れたときも同じです。だから、語られるのはいつもキャラクターと物語だけ。本当に語られるべき大事なことは、それだけではないと確信しています。
――今回の出版の経緯もそうですが、氷川さん自身が書きたいテーマを温めているだけではなく、外部の人から“おもしろくなりそう”と思われて書籍になるパターンも多そうですね。
氷川 執筆の基本は「来る者拒まず、去る者追わず」です。仕事や自己実現は“縁”ありきです。去る人を追いかけてもしょうがないし、来る人は自分を知って来ている時点で“縁”があると思っています。周りが認めた自分の何か特別なことがあるなら、それを媒介にして自己実現をしていくほうが、結果的により大勢に届くのかなと。そうは言ってもすでに65歳なので……(笑)、今のうちにアイデアスケッチ的なことを自発的に出すのを優先していきたいなと。
――今後の氷川さんの展望をお聞きするうえでも、そのアイデアスケッチをちょっとお伺いしたいのですが…!
氷川 (笑)。今回の著作でも、難しいという印象をあたえる話題は削りました。なかには先の寺田寅彦の話のように大きく外した部分もあります。そこは深堀りしてみたいですね。デジタルやCGの作用も今回は略しましたが、自分はデジタル通信機器のエンジニアでしたから、ハード、ソフト、プロトコルといろんな角度から「デジタルやCGがアニメに何をもたらしたか」を説明できるはずです。ただ、これについては「AIの時代」が予想より早く来てしまい、その位置づけが難しいんですよね……。
デジタルとかCGに関しては、文献がいっぱいあるようでいて、ほとんど専門学校の就職用か業界情報なんです。実動部隊向けの知識やノウハウは書いてあるけど、「なぜこの技術が映像表現に必要か」とか「アナログ時代の映画職人のこんな技とこんな関連がある」とか、技術を生んだ理由や映像文化としての“本質”は薄いんですね。そんな部分含め、いたるところ穴だらけに見えるので、まだまだやり足りていない部分が多いと考えています。