ゆるりとした空気と独特のネタが魅力の男女お笑いコンビ・人間横丁。2021年、2022年と連続してM-1グランプリ3回戦まで進出し、初開催された芸歴5年目以下の賞レース『UNDER5 AWARD』でも準決勝に進出。フジテレビのバラエティ番組『深夜のハチミツ』にも出演し、着実に知名度をあげている。

ニュースクランチのインタビューでは、ネタの雰囲気と同じくらい謎が多い二人に、芸人を目指した経緯からコンビ結成のキッカケまで、舞台上と変わらず仲の良さがうかがえる空気感でたっぷりと語ってもらった。

▲人間横丁(山田蒼士朗、内田紅多)【WANI BOOKS-NewsCrunch-Interview】

M-1を見て「ホワイトペッパーズになる!」

――まずは、内田さんと山田さん、それぞれどんなお子さんだったのでしょうか?

内田紅多(以下、内田) 私に自我ができたのは大学生のときからで、それまではずっと自我がなかったと思ってるんです。それまでの思い出は記憶にはあるんですけど、じゃあ何かを自分で考えて行動してたかというと、そうではなかったような気がしていて。“気を使う”ということを知ったのは大学生になってからです。

――“自我がない”というのは、ご両親やお友達から言われたことをやっていたような感じですか。

内田 そうですね。親は何も言わないし、私もやりたいことがないから習い事とかもしたことなかったし、ずっと家でゲームをしていました。兄弟が4人いて、みんなでゲームキューブで『スマブラ』や『マリオパーティ』をしていました。小学校の途中でWiiになって、そこからはずっと『マリオカート』と『スマブラ』をやっていました。

――すべて任天堂なんですね(笑)。

内田 はい。任天堂には良い思い出しかないです(笑)。

――今お聞きしたからではないですが、人間横丁には任天堂ぽさがありますよね。敷居が低くて、みんなが楽しめるような雰囲気。

内田 うれしい~!

――山田さんはどんなお子さんでした?

山田蒼士朗(以下、山田) 小学校のときは、人前に出るのは好きでしたね。その頃からお笑い芸人を目指していました。お笑い芸人になりたいって初めて思ったのは保育園です。

――めちゃめちゃ早い!

山田 小4ぐらいの頃に1個下の学年の後輩を誘って、漫才とか、5人くらいでコントのようなことを学童やお楽しみ会のときにやっていましたね。

内田 5人って多くない?

――(笑)。でも、なかなかないですよね。保育園ぐらいの頃の夢をかなえている人って。

山田 え~そうなんだ(笑)。

――お楽しみ会などで実際にやっていたということでしたが、自分で芸人をやってみたいなと思ったキッカケはありますか?

山田 M-⁠1を見て“かっこいいな”と思ってですね。ブラックマヨネーズさんの頃、2005年とかですかね。“ブラックマヨネーズさんになりたい!”と思って、保育園の先生に「将来はホワイトペッパーズになる!」って宣言していました。

それぞれがお笑い芸人をめざしたキッカケ

――先ほどのキッカケのお話になるんですが、内田さんがおっしゃった「大学まで自我がなかった」というのは、まさに自我ができたときに芸人を志したってことですよね。

内田 そうかもしれないですね。大学で自我ができて、お笑いが好きになったのも大学生のときなんですよ。20歳くらいかな。「お笑いは楽しいな」って。就活の時期に“養成所に行くのもいいな”と思いつつ、就活もフワフワしていたから就職できなかった(笑)。

――どういう進路に進みたいというのはあったんですか?

内田 その頃はゲームのプランナーになりたいと思っていました。企画を考えるのが好きで、大学でも何かイベントとかを考えるのが好きだったので。じつは3次面接まで残って、“ここに行く!”と思っていた会社があったんですけど、そこも落ちちゃって。フリーターしながら絵を描いたりしようかなと思ってたんですが、そのフリーター期間中にサツマカワ(RPG)さんを見て“面白い! お笑いやろう!”と思いました。

――青天の霹靂じゃないですけど、サツマカワさんが内田さんの人生を変えたんですね。

内田 たしかにそうかも。サツマカワさんなんだ~!

――山田さんは就職されてるんですよね?

山田 はい、中学校に入る前までお笑い芸人になろうと思っていたんですけど、中学校になって部活が始まって、部活のことしか考えられなくなって、だんだん芸人になる夢が頭からぬけ落ちていきました。

――そのときは何の部活をされていたんですか。

山田 バスケ部です。そのあと普通に高校に行って、大学は行く気がなかったから就職したんですけど、お笑い好きだったし一度は生で見たいと思ってルミネに行ったら、“うわー! やっぱりあっちがいい!”って。でも、飽きっぽいから衝動だけかもしれないと思って1年待ってみたんです。で、1年後、まだお笑いをやりたかったので養成所に行きました。