NHK大河ドラマ『どうする家康』の28話「本能寺の変」が放送されました。大坂の堺に入り、織田信長を討つ計画を進めていた徳川家康。偶然にも信長の妹であるお市と再会したことも重なり、信長への謀反を断念します。そのとき「信長が本能寺で死んだ」という知らせが届きます。ドラマの最後では、敵に襲われながら三河に逃げる場面が描かれ、家康の一世一代の逃亡劇である「伊賀越え」が始まりました。
「本能寺の変」は日本史の未来を一変させた決定的な事件でした。同じように世界史を見ても、歴史の流れを左右するような暗殺事件が数多くあります。その一つでトム・クルーズ主演映画『ワルキューレ』でも描かれた、ヒトラーの暗殺計画である「ヴァルキューレ作戦」を紹介したいと思います。
信長とヒトラーの共通点は?
信長のイメージとして「独裁者」というものがあると思います。現在の言葉で例えると、信長の組織運営はまさに「ブラック企業」でした。理不尽な要求を繰り返すパワハラ上司だった信長に対して、家臣たちはかなり疲弊していた、という記録が多く残っています。
天正8年(1580)、信長は佐久間信盛を追放しています。今回のドラマでは、築山殿の計画を把握できなかったため追放されていますが、実際には石山本願寺との戦いに10年も費やしてしまったことへの責任のようです。信長が家督を継いだときから、30年近く仕えてきた佐久間ですら、容赦なく追放してしまう。彼の独裁者ぶりがわかるエピソードです。
明智光秀が本能寺の変を起こした理由はわかっていません。ただ光秀が事件を起こす原因と考えられるエピソードがあります。
天正10年(1582)3月、甲州征伐によって信長は、武田家の滅亡に成功します。同年5月、信長は安土城に家康を招いて、祝賀会を開催することにしました。家康の接待係として、信長は光秀を担当させています。
『川角太閤記』には、このときの様子が描かれています。光秀は接待のために食事を用意していましたが、暑い日が続いたため用意していた生魚が傷んでいたそうです。信長は光秀の準備のいたらなさに怒り狂い、家康の接待係を外します。この処遇に光秀が傷ついたとされています。
『川角太閤記』は江戸時代に書かれた書物で、多くの創作が含まれているため、この光秀に関するエピソードも信憑性を疑う指摘があります。
しかし、イエズス会宣教師・ルイス・フロイスが書いた『日本史』にも、家康の接待をめぐる意見の相違によって、信長が光秀に足蹴りを加えたという記述があり、信長と光秀の関係性が悪化したことを示唆するエピソードが数多く残されています。
同じようにヒトラーにも「独裁者」というイメージがあるでしょう。ヒトラーの巧みな演説などの大衆操作によって、国内世論を支配する一方、ナチス・ドイツは親衛隊(SS)やゲシュタポなど秘密警察の権限を強化し、言論・政治活動の自由を奪っていきました。初期の頃からヒトラーに忠誠を尽くしてきた突撃隊(SA)を解体し、そのリーダーであり盟友だったハインリヒ・レームも殺害しています。
ヒトラーは自身の権力を盤石にするため、親衛隊(SS)やゲシュタポという「暴力」を用いることで法による裁判などの手続きをしないまま、反ヒトラー勢力を拘束・排除(殺害)していきました。
ヒトラーの暗殺計画は、わかっているだけで40ほど存在しています。ドイツのビアホールにおける爆殺未遂事件、ドイツ軍の青年将校たちによる航空機爆破未遂事件などがあげられます。
1944年7月に起きた「ヴァルキューレ作戦」の主導者は、シュタウフェンベルク伯爵です。過去の戦闘で、右手首と左手の指2本、また左目まで失った傷痍軍人です。しかしカリスマ性があり、ドイツ軍のなかでは人望の厚い人物でした。
ドイツ軍にとってヒトラーの存在は、最初の段階では希望の光でした。しかし、次第にヒトラーの本性が明らかになると、ドイツ軍の心は離れていきます。
また1944年に入ると、ドイツの敗北は目に見えていました。同年6月、連合軍はノルマンディー上陸作戦を成功させ、ソ連軍のベルリン進撃も目前に迫っています。このままヒトラーの指示に従って戦争を継続するよりも、少しでも早く終わらせて講和条約を結んだほうが、将来のドイツにとって有益であることは明らかです。
そのためにはヒトラーを暗殺するしかありません。
1944年7月20日、シュタウフェンベルクは東プロイセンで開催される会議において、ヒトラーを暗殺する計画を立てることにしたのです。その理由としては、軍のなかでシュタウフェンベルクは人望があったため、暗殺計画に際して多くの協力者を集められたこと、シュタウフェンベルク自らが会議に出席するため、ヒトラーに接近できる数少ないチャンスがあったことがあげられます。