「運」によって左右された暗殺事件の結末

天正10年(1582)6月2日未明、明智光秀は京の本能寺に宿泊していた信長を、1万3千もの軍勢で突如攻め込みます。「毛利攻め」のため中国遠征中だった羽柴秀吉の援軍要請を受け、信長は自ら出陣する準備を進めるため、京に滞在していました。

本能寺には僅かな家臣しか伴っていませんでした。信長の防戦むなしく、わずか2時間ほどで戦いは終結。燃え盛る炎のなかで、信長は自刃しました。47歳でした。

『どうする家康』では、信長は家康による謀反であると、最初の段階では勘違いをしていました。「家康!」と叫びながら本能寺を彷徨うのですが、最後に光秀の犯行だとわかると、少しがっかりした表情を見せます。光秀から「平和な世においてあなたは必要ない」と言われると、信長は「お前にできんのか、このキンカン頭!」と怒号をあびせます。そして、静かに寺の中へ消えていきました。

「本能寺の変」が起きた理由の1つとして、信長の組織運営を指摘する声があります。信長の人材登用は、実力(競争)主義です。たしかな能力があれば、尾張国以外の人材も積極的に採用しています。逆に言えば、出世をするためには、とにかく仲間を出し抜いて結果を出し、信長に気に入られるしかありません。

事実として、光秀はヘッドハンティングされ、朝倉家から織田家に移った転職組でした。そういった環境にいる家臣たちには、仲間に対する連帯感や尾張国に対する愛着もなかったのでしょう。信長が敷いた実力主義による弊害が、本能寺の変の背景にあるのかもしれません。

光秀が謀反を起こさなければ、信長の天下統一は間違いなく実現したはずです。人やモノが積極的に動く自由な経済圏を目指した「楽市・楽座」など、なによりも“自由”を重視した信長は、どのような夢を描いていたのでしょうか。

▲アドルフ・ヒトラー 写真:Bundesarchiv, Bild 183-H1216-0500-002 / CC-BY-SA

ヒトラーの暗殺計画を立てたシュタウフェンベルク。それは、ヒトラーが参加する会議室に爆弾を持ち込み、なるべくヒトラーの近くで爆発させる計画でした。

計画に際しての最大の懸念は、シュタウフェンベルクの手が不自由であることです。

爆弾を起動させる装置は現地で組み立てるしかなく、そのためには時間の確保が必要でした。当初は2つの爆弾を起動させる予定でしたが、次々と任務が入ってしまい、組み立て作業に取り組むことができません。しかも、会議の開始時間が30分早まってしまったため、1つの爆弾しか用意することができませんでした。

爆弾を入れたカバンを持って、シュタウフェンベルクは会議に出席します。テーブルの下にカバンを置き、あとは起爆を待つだけです。時間が近づくと、彼は緊急の電話をすると言い、部屋を出ます。

12時40分過ぎ、大爆発が起きます。爆発を確認したシュタウフェンベルクは、ヒトラーの死を確信します。

ところが、ヒトラーは生きていました。着ていた服はボロボロでしたが、わずかな擦り傷と打撲だけで済んだのです。会議室にあったテーブルが幸運にもヒトラーを守ったためと言われていますが、爆弾を1つしか持ち込めなかったことも失敗の原因でした。

その日の深夜、シュタウフェンベルクはヒトラーによって銃殺されます。暗殺に関与した関係者1500人が逮捕され、200人が処刑されました。

もし「ヴァルキューレ作戦」が成功していたならば、ドイツ軍の戦死者はもっと少なく済んだはずです。また、ユダヤ人大虐殺(ホロコースト)のピークは、1945年の夏だとされており、多くのユダヤ人が救われていたことは間違いないでしょう。