こういう生き方をしたいという主人公がいるはず
――ディスプレイの文字を牛の涎に見立てるなど、描写の仕方も独特だと思うのですが、乗代さんが実際に見て感じたことを、高校生である主人公から見た感じにしているのでしょうか。
乗代 そうですね。会話を書くにしても、その会話をどう思っているのかの説明がなければ、それこそ純文学の顔はしていられません。会話を書くなら書くで、それについて考えている人間が書き手じゃないといけない、と思っているところがすごくあります。
しかも、それでその人物に救われてほしいという思いからスタートするのですが、そうなると「この会話を書ける人間はどんな人なのか?」から始めないといけない。だから、最初の部分はかなりトーンが違っていると思います。
――たしかにそうですね。
乗代 要は「こいつが何か書き始めたところで、どんなヤツなんだ」を書く必要があるんです。だから、こいつはこれまで1人でやってきた人間だろう、ということがわかる描写を書きました。どんな自己形成をしてきた人間かっていうのを、身の上話っぽくなくやる必要があるかなと思ったんです。それを随所にちりばめながら、批評用語とかも入れながら書きましたね。
それには、この主人公が町の図書館で自己形成したという背景があるんです。新しい本がバンバン入ってくるわけでもない、何十年か前の書物を読みながら考えて、あまり人付き合いもせずに過ごして……っていう。前提として、0から1は自分が作らなきゃいけないので。でも、これを僕が書くことで、こんな人間になろうとする人はいると思うんです。『スラムダンク』を読んで、桜木花道になろうと思う人がいるのと同じで。
――なるほど。
乗代 こういう生き方をしたいという人が、もしかしたら、もしかしなくてもいるということを僕は信じられそう。でも、人間に関してはそれでいいと思うのですが、自然に関してはそれができません。自分が自然を想像して書いたところで絶対に人のようにはならないですから。だから、自然は絶対に変えないようにしています。
作品の中に出てくる展覧会とか宝塚の時期は、多少ずれても、人間のやることだからいいだろうと(笑)。そこに関しては線引きをしていますね。
「そろそろ終わっていいのかな」と思えた描写
――小説の区切りというか終わり方はどうしているのでしょうか。こうして作品の作り方を聞いていると、続けようと思ったら、ずっと続けられるだろうなと感じたのですが。
乗代 『それは誠』では、途中がどうなるかわからない状態でした。そもそも最後は電車で戻れることは考えていなかったので、主人公がおじさんに会えるのか会えないのかもわからなかった。会えないまま帰っても別にいいかなとは思いつつ、そのシーンで戻り方を考えつく登場人物になっているのかとか。時代的なことも関係してきますが、登場人物の賢さとかを鑑みて、割といけそうだと思えたんですよね。
――もう乗代さんの手を離れているというか、「この登場人物たちだったら、こうなるだろうな」というところに向かっていくわけですね。
乗代 その気持ちもありますし、描写を入れたいから、夕陽の時間までいてくれっていうのもありました。だから16時に帰られると、さすがにまだ早いだろうって。そういうことまで入れ込むために歩いているんですよね。
――作家さんによって書き方は異なりますよね。
乗代 異なりますね。ただ、こんなに現地取材しているのは自分だけ、という自負はあります。どこで話を終えるかという問題はありますが、ラストに向かうまでになんとか夕陽まで入れて、最終的に7人の会話を書きたかったんです。会話を書くことで、みんなが変わった様子もわかるので。
でも、そこでどれくらい会話をさせるのかは結構迷って、何回も同じ時間の電車に乗って取材をしました。そのくらいの時間ってほぼガラガラなんですけど、ここで何が起こるのかなって。そこで大きかったのは窓ガラスの反射の描写でした。そこに班員を揃えられるなと自分で確認できたんですよね。帰ってどうこうとか、次の日どうしたとかは、もうどうでもいいと思ったのは覚えています。そろそろ終わっていいのかなって。
――こんなことを言うと、身も蓋もないと思うんですけど、なんだか天才の話を聞いている気分になります……。
乗代 いえいえ(笑)。実際に見たことを書いているので、むしろ逆だと思いますよ(笑)。家で思いつくことももちろんあると思いますが、そうすると僕の場合は書けないんです。だから外に出て証拠をおさえているんです。「これは実際に見たんだから」って、自分で自分を納得させる作業です。
――たしかに……それを想像で書いている人を乗代さんは天才だと感じていて、自身は現地に行って理由づけをしているということですね。
乗代 そうです。もちろん、机で信じられて書ければいいんですけどね(笑)