テレビ業界をよく知らない人でも、名前を聞いたことはあるだろうテレビディレクター・演出家のマッコイ斉藤。『おねがい!マスカット』『とんねるずのみなさんのおかげでした』などの番組を担当し、現在YouTubeでは『貴ちゃんねるず』『TOKYO BB returns』、Abema テレビ で『芦澤竜誠と行く ぶらり喧嘩旅』『格闘代理戦争』などのヒット作を手掛けている。
バラエティ界の鬼才と呼ばれる彼が、今年の7月に自伝的な単行本『非エリートの勝負学』(サンクチュアリ出版)を発表。同作ではこれまでの人生を振り返るとともに、「男気ジャンケン」などのヒット企画が生まれた経緯や、今後の展望などをしたためている。
これまで頑なに自伝などを発表しなかった彼が、自伝を出版するに至った経緯とともに、企画と同じくらい濃密な彼の半生から、土壇場をどのように乗り越えたのか、マッコイ斉藤という人間に迫った。
頭の中はたけしさんのことばかり
「どういう幼少期?って聞かれても、そこらへんにいる“じゃりっぱげ”ですよ。全校生徒が30人くらいの小さい小学校に通ってました。山形の方言で『きかなす』って言葉があって、人の言うことを聞かない子どものことを指すんですけど、周りの大人が俺のことを“この子はきかなすだ”って。その頃からやけに弁は立つ子どもだったみたいです」
山形県住みます芸人をやっているソラシド本坊に、ニュースクランチでインタビューをした際、「山形の人はお金儲けに興味がないようだ」と語っていたのが印象に残っていたので聞いてみたところ、山形で生まれ育ったマッコイも同意見だった。“聞かなす”と言われた斉藤少年も、そのような環境で育っていく。そして、当時の子どもたちの楽しみといえばテレビ。なかでも、ひとりの芸人、ビートたけし氏に夢中になった。
「僕らの世代はみんなそうだと思うんですけど、大好きで、たけしさんが出てるテレビ、まあ、当時の山形はNHKと民放2局くらいしかなかったんですけど、見られるものは全部見てましたね。小学校、中学校、ずっと頭の中はたけしさんのことばかり。昔は、ラジカセに小さなテレビがついたものがあったんですよ、白黒でノイズまみれなんですけど、それでずっと見てました」
学校でも成績が良いわけじゃない。かと言ってとんでもない不良でもない。そんな当時の山形の状況をマッコイは「公務員になるか、農家になるか」と記している。しかし、このままだとわかりきった人生のレールに乗ってしまう、そう感じたマッコイは上京を決意する。
「周りはビックリしてましたね。でも東京に行きゃあなんとかなるかって。たけしさんに近づきたい、と思ってたんですけど、親にはそう言えないんで、料理人になるって嘘つきました。だから、上京して中華料理屋でバイトしてましたよ。だから本当、何かの仕事を決めて上京したわけじゃなくて、たけしさんに近づくにはどうしたらいいかって感じ。今みたいにネットもないし、芸能界ってどうやって入ったらいいかもわからなかったんで」
ある日、コンビニでたまたま見かけた『De☆View』という雑誌で、“『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』スタッフ募集”という広告が目に留まった。
「即応募ですよ。でも、面接会場ついたら、みんなスーツにネクタイで、髪の毛も清潔感ある感じの集団。当たり前ですよね、就職面接なんですから。僕だけが金髪の坊主で、ライダースに破れたデニム履いて、ファーのマフラーと革のブーツ。しかも、みんな一流大卒の中、俺だけが高卒(笑)。無意識にまるめちゃった履歴書を面接官が机に押さえながら、“これで受かると思ってる?”って聞かれたとき、“全然思ってないです”って正直に言っちゃいました」
すでに落ちたと思ったマッコイは、なぜこの番組を選んだのか、ビートたけし氏への憧れを面接官に熱く語った。そして数日後、IVSテレビ制作からかかってきた電話で告げられたのは「合格」の言葉だった。
「“電話をかける相手、間違ってません?”って聞き返したら、担当者が“履歴書が丸まってた斉藤さんですよね?”って(笑)。会社に入ったあと、なんで僕が受かったか聞いたら、その面接を聞いてた他の社員さんが“あの子、面白いね”って、それで決まったみたいです。面白いことを作る会社だからかな、と思って腑に落ちました。
そういう経験があったからではないですが、今、自分が面接をする立場になったときに重視するのは“この人は正直かな?”という点です。『恵比寿★マスカッツ』のオーディションでも、“なんで面接に来たの?”って聞いたときに、いかにもマニュアル通りみたいな言葉を喋る子より、“事務所に言われたんで来ました”って正直に話す子を合格にしてきました。そういう子のほうが、あとあと面白いんですよね」
『元気が出るテレビ』での手応えと失敗
こうして、『元気が出るテレビ』のADとなったマッコイ。しかし、体育会系を通ってきたマッコイには我慢できないことがあった。
「先に入ったからという理由だけで、年下の先輩からのタメ口とか、ナメたことを言われたのには……耐えられなかったですね。いろいろと理不尽なことも言われて……一発シメちゃおうかって何回も思ったけど、社会人でそれはマズいだろって。いま思えば、せっかく夢に近づいてたんだから、我慢すりゃいいんだけど(笑)。でも、収録のたびに、生のたけしさんを見られたし、“こんなヤツら、実力でぶちのめせばいいや、何も言わせないくらい頑張ってやろう”と思ってました」
ビートたけし氏に近づく、という夢を叶えつつあったマッコイ。実力でぶちのめすと思っていたということは、早くから自分が演出や編集に向いていると感じていたのだろうか。
「いやいや。自分がこの仕事向いてるなと思いだしたのは、30過ぎてからじゃないっすかね。元気の頃は全然思ってなかったです。そりゃ、結果として周りのディレクターよりヒットの率が高いかな、とは思ってましたけどね。同じ素材でも、編集する人で“こんなに違うんだ”と。
いまだに僕が唯一、尊敬して憧れて感謝しているディレクターは、ムネ(宗実隆夫)さんだけなんです。ムネさんから編集技術をイチから教わって、間とリズムの取り方を学びました。当然、同じ番組でムネさんも僕と同じく、担当したVTRを出してヒットしてたんで、最初はムネさんのマネから。そこから自分のオリジナルになったのは、30過ぎてからだと思います」
ヒット企画を多数生み出した『元気が出るテレビ』において、マッコイ自身が手掛け、初めて手応えを感じた企画を聞いた。
「島崎俊郎さんとかMr.オクレさんとか出川さんとか、いつも騙されている人たちを集めて、“今回はドッキリを仕掛ける側に回ってください!”って言うんだけど、じつは自分たちが最後仕掛けられて……ってVTRを作ったとき、それがスタジオでしこたまウケたんですよね。
それは作家さんとかじゃなくて、全部自分で考えて自分で編集したものを、あのたけしさん含めスタジオみんなが笑ってくれた瞬間……“あ、俺ってちょっと才能あるのかな? と思いましたね」
ディレクターのなかでも、ひと足早く結果を出していたマッコイ。しかし、好事魔多し、現場でトラブルを起こしてしまったマッコイは、他番組のADになることを命じられる。
「すごく冷遇されてたんですよね。結果を出してるのに、俺だけ冷遇される。で、若い頃って結果出すと調子乗るじゃないですか(笑)。態度が悪かったり、社長の言うことを聞かなかったりとか、それも鼻についたんだと思います。たしかに自分のしたことや、態度は褒められたもんじゃないですけど、 “ADやれ”って言われたから、“じゃあ、やめます”って。ひとつめの大きな壁、土壇場でしたね」