仕事が回らなくなって大変だった時期
2015年にデビューを果たした小川。デビューするまでは土壇場らしいことはなかったようだが、小説家となってからは追い込まれた状況も経験することになる。
「僕、イヤなこととか苦労したこと、悩んだことをすぐ忘れちゃうんですよね(笑)。楽観的な人間だからか、あまり土壇場らしいことがあった記憶がなくて。周りから見たら土壇場なのかもしれないけど、自分では何も考えていなかったりすることがあります。
小説家になって一番キツかったのは、2019年の夏くらいかな、『嘘と正典』という短編集が出る前後ですね。そのときは本当に仕事が回っていなかった。まだいっさいゲラも書いていない、書き下ろしも一文字も書けていない状況なのに、なぜかAmazonに『小川哲の傑作短編集』と、僕の本の商品ページができていて驚きました(笑)。『地図と拳』も書きながら、短編集のために書き下ろしを書いたり、直したりして……」
第162回直木三十五賞候補にもなった『嘘と正典』は、小川が広く世に知られるきっかけになった作品。この状況をどのように乗り越えたのか。
「とにかく連載が回っていなかったので、『地図と拳』の連載を一年くらい休みました。僕もゆっくり考える余裕がなくて、煮詰まっちゃって……。今まで書いたものを直したいってことで、思いきって休みをもらいました。で、そこから一年かけて、連載を仕切り直したんです。いま考えると、あの時期は人生のなかでもかなりキツかったので、そこで連載を休んだという決断ができたのは良かったと思います」
結果的に、小川は第168回直木賞を『地図と拳』で受賞することになる。土壇場らしい記憶があまりない、と自己分析する人間が“キツかった”と回顧する時期に、無理をせず、一度立ち止まり、休むという選択が、土壇場を乗り越えることにつながったのだろう。
イヤになりそうだったら仕事だろうとやめます
さまざまなジャンルの小説を発表している小川だが、普段はどのような環境で作品を書いているのだろうか。
「ここ一年くらいは取材やメディア出演が多かったので、それに合わせてスキマ時間で仕事する感じになっていました。去年とか、今ほど仕事がないときは、昼くらいに起きて、ゴロゴロして、起きたら仕事して、飽きたらやめる、みたいな一日でしたよ(笑)。何時から何時までやる、とかを決めて書いたことはないですね」
作家といえば、納期に追われて徹夜をしたりなどもあるのかと思いきや、仕事については自分のモチベーションを大事にしていると小川は話す。
「僕は仕事ができるような状態であるかを一番大事にしています。“もうこれ以上やるとイヤになるな”と思ったらそこでやめますし、“今日はちょっと書ける日じゃないな”と思ったら、5分くらいでやめてしまうこともあります。メールだけ返信して終わるみたいなこともありますよ(笑)。
イヤになりそうだったら、仕事だろうとすぐにやめます。限界までやって疲れて、“この仕事イヤだな”と思う前に切り上げるようにしています。最悪、それで他人に迷惑をかけてもいいと思うんです。まじめな人に多いと思うのですが、他人に迷惑をかけないように頑張りすぎてしまっても、その人が潰れてしまったら、結局、本人が一番損をしてしまう。もちろん、人に迷惑をかけないのが一番いいんですけどね」
仕事をしていてイヤになってしまう経験は誰にでもあるだろう。それは、小川のように好きなことを仕事にしている人でも同じだ。しかし、会社員という立場では同じようにはいかない場面もあるとは思ったが、自分自身が潰れてしまっては元も子もないのだ。
小川のこれまでの作品を読むと、興味の幅広さがよくわかる。自分が興味あることを作品にしているように思うのだが、それにしても振り幅がすごい。例えば『君のクイズ』は競技クイズが題材となっている。『地図と拳』は日露戦争前夜から第2次大戦までの半世紀が舞台だ。小説のネタにする決め手となる基準が気になった。
「クイズは別にプロじゃないし、建築も戦争もプロじゃない。でも、小説についてだけは、人より知っていると思います。だから、自分が“これは小説だな”と思ったら、それを題材にしてしまいますね。
例えば、競技クイズのプレーヤーの頭の中で起こっていることや考えていることが、僕が小説を書いているときに思っていることや考えていることに重なる部分があると、すごく深い部分で、“クイズと小説”が僕の中で接続されるんです。この思考は作品のテーマが決まるときの重要な要素かもしれません。
経験はなくても同じようなことを考えたていたりしていて、それが小説足り得るなと思ったら小説になるっていう感じです。世の中の大抵のことは、自分のよく知っているものと同じ構造で考えられるんですよ。だから、僕からすると世の中の出来事はだいたい全部小説なんです」