伊藤一朗はEvery Little Thingのギタリストである。そんな当たり前のプロフィールをわざわざ太字にしたくなるほど、バラエティ番組における彼の活躍ぶりは印象深い。だからこそ、今一度“ELT・伊藤一朗”としての顔を深掘りしたいと思った次第。ギタリストとしての彼はどのように生まれ、どんな土壇場を乗り越えてきたのか。
ドラマーの座を断念してギターを始める
神奈川県横須賀というロックが身近な環境で生まれ育った伊藤一朗。近くには米軍基地があり、米兵たちの影響でFENのラジオ放送を聴くようになるなど早熟な少年だった。もちろん、ロックに目覚めたのも早い。しかし、最初からギタリスト志望だったわけではないらしい。
「中学校の音楽の先生が、郷ひろみさんのバックバンドにいて、プロでは食えないから教師をやってるみたいな人だったんですね。で、義務教育なのに“ドラムの8ビートを叩けたら及第点をやる”って言うムチャクチャな先生だったんです(笑)。それで、僕の学年でドラムブームが起こっちゃったんですよ。
で、ドラムが叩けると、その先生がピアノで乗っかってジャムってくるんです。そんなことされると、合奏の楽しさを体感しちゃうじゃないですか。“バンドって楽しいんだな”みたいな、そっちの気持ちのほうが先でしたね。
だから、ドラムをやりたかったんですけど、友達に金持ちの息子がいて“俺、ドラム買っちゃった”って(笑)。それを聞いて“あ、ピッチャーはダメなんだな”と思ったんです。ドラムがピッチャーって変な話ですけど(笑)。それで“じゃあ、ギターにしとくか”みたいな。だから、ギターを初めて手にしたのは15歳ぐらいのときでした」
当時、伊藤が好きだったのはアメリカンロック。姉のレコードコレクションから見つけたジャーニーやTOTOを聴いて影響を受けたが、お手本にしたギタリストはエディ・ヴァン・ヘイレンだった。
「ギター雑誌を買うとエディのスコアが載ってるんですよ。で、なにも判断材料がないんで“これを弾くのが普通なんだ”と思って、ライトハンドとかタッピングをいきなり練習してました。そういう勘違いみたいなことを(笑)」
そして高校に入り、伊藤は念願のバンド活動を始動させることになる。
「ジャズをやるのか、ビートロックをやるのか、メタルをやるのか……ぐらいに絞らないと、ライブハウスで集客を見込めないんですね。で、僕はほら、見てのとおり真面目で勤勉だったので、メタルの方向に」
別に、ふざけてるわけじゃない。「メタラーは真面目な人が多い」が伊藤の持論である。勤勉な彼は、いつしか髪を伸ばし始め、その長髪を結び、ブレザーの制服で隠すという荒業を習得し、周到に校則の網をくぐり抜けていった。
「派手な格好をしているので、親からは“恥ずかしいから日中は家に帰ってくるな”と言われてました(笑)。じつは、僕は生まれてすぐ肺炎になって、保育器にずっと入ってたんです。だから“あのとき死んでれば、私はこんなひどい思いをしないで済んだのに”って、昭和っぽいことも言われましたね(笑)」
地元の先輩hideから影響を受けてバンド活動に邁進
高校を卒業した伊藤は、アルバイトをしながらセミプロのバンド活動を継続。メジャーのレコード会社と契約し、プロになる機会を窺っていた。主戦場は、やはり横須賀。米兵たちが騒ぐバーやクラブで、地元のバンドとしのぎを削る日々だった。
「当時はフリーターという言葉もなくて、プー太郎って括りだったんですけど、進学も就職もせず、アルバイトをしながら自分のやりたいことに本気になってる先輩が、そこにいたんです」
その“先輩”とは、のちのX JAPANのhideである。当時、hideは「横須賀サーベルタイガー」というバンドのメンバーとして活動していた。
「僕は音楽に情熱はあるけど、“進学か就職をしながらバンドをやるしかないな”と、おぼろげに思ってたんです。でも、hideさんみたいな人を初めて目の当たりにして、こういう道に進んでもいいんだと、特にライフスタイルの面で影響を受けました。だから、金魚のフンみたいにくっついてましたね」
では、音楽性についての影響はどうだったのだろうか。中高時代はメタル少年だった伊藤。しかし、彼の嗜好の変遷はかなり幅広いようだ。
「18歳ぐらいでメタルでの成功は見限ったというか。あ、もうダメなんだなって。ちょっと名の知れたバンドと対バンすると、お客さんが400人ぐらい来るので、月4回ぐらいライブすればチャージバックで生活できたんですけど“これは長くは続けられねえよな”と思ってました」
特に絶望視していたのは、メジャーとの契約だった。
「レコード屋でアルバイトをして、そこで仕入れを担当していたことがあるんですけど、そうするとリアルな音楽シェアって見えるんですよ。自分はロックしか好きじゃなかったから、それまで知らないんだけど、周りの人は“こんなのをたくさん聞くんだ”と気づいて。人気があったのは、やっぱり歌謡曲、ポップスですね。あと、演歌のレコードってこんなに売れるんだ!って。
日本の音楽シェアで、ロックというジャンルがあり、自分のやってるカテゴリーはロックの“そのまた少ないパーセンテージ”のところ。そこで契約を取らないといけないわけだから、これで生活していくのは厳しいなと」
伊藤が所属していたメタルバンドは、ほどなく解散。その後、彼は小綺麗なルックスに容姿を様変わりさせ、ポップスのバンドを渡り歩くようになった。
「今、YouTubeで昔のJ-POPが流行ってるじゃないですか? ああいうシティポップ的な音楽をやるようになりました。そこで、ハードロックとかメタルにはないアレンジとかコード、スケールを勉強しましたね」