1990年代、新日本プロレスの武藤敬司・蝶野正洋・橋本真也の「闘魂三銃士」と人気を二分したのが、全日本プロレスの三沢光晴・川田利明・田上明・小橋建太の「四天王」だ。

完全決着の“至高のプロレス”と呼ばれた四天王プロレスを牽引したのが三沢ならば、妥協なきファイトでファンを魅了したのが川田、努力と熱血でファンの共感を呼んだのが小橋。年長の田上は泰然自若で「普段はのんびりしているが、突如として恐ろしい強さを発揮する」ということで不思議な人気を誇り、“田上火山”と呼ばれていた。そんな男の“土壇場”は、いつだったのだろうか。

▲俺のクランチ 第44回-田上明-

憧れじゃなくて職業としてプロレスラーになった

「土壇場って……どういうのが土壇場っていうのかねえ?」

いきなり田上節が炸裂した。傍から見ると、田上の最初の土壇場は86年5月場所終了後に相撲を廃業したときだ。押尾川部屋にスカウトされて高校3年生だった80年1月に初土俵。玉麒麟の四股名で“各界の玉三郎”と呼ばれる人気力士に成長した田上の廃業は、西十両6枚目で幕内目前、まだ26歳の若さで将来がある身だった。それが押尾川親方(元大関・大麒麟)とソリが合わずに部屋を飛び出してしまったのだ。

「あれも土壇場なのかな? あれは土壇場っていうか、やけっぱちだよ(笑)。この部屋にいたくない、大麒麟を親方と呼びたくないっていう気持ちが強くて、その先のことなんか考えずに部屋を飛び出しちゃったよ。今のかあちゃん(清美夫人)のマンションに転がり込んで、寝るところがあったからよかったけど」

のんびり見えるが、こうと思ったら計算せずにパッと行動に出るのが田上なのだ。そしてジャイアント馬場率いる全日本プロレスに入団した。

「最初はトラックの運転手になろうかなと思ったけど、大型の免許は持っていなかったから、まず免許を取らなきゃいけなかった(苦笑)。そんなときに、知り合いの楽ちゃん(三遊亭楽太郎=のちの6代目・三遊亭円楽)にジャイアント馬場さんを紹介してもらって。

相撲とプロレスはだいぶ違うけど、どっちも体を使って戦うわけだし、食い扶持がねぇから切羽詰まってプロレスラーになったんだよ。プロレスをやるヤツは、もともとプロレスが好きだったヤツが多いけど、俺は憧れとかじゃなくて、職業としてプロレスラーになったんだよ。……ということは、やっぱり土壇場だったのか(笑)」

土壇場を自覚せずに第二の格闘技人生に飛び込んだというのも、いかにも田上らしい。プロレスラーになった田上は、馬場に「なまくらだ!」などと怒られながらも、慌てず騒がずマイペースで成長していく。

三沢に勝って三冠ヘビー級王者になったし、ジャンボ鶴田、川田利明とのコンビで世界タッグ王者にもなり、春の『チャンピオン・カーニバル』、暮れの『世界最強タッグ決定リーグ戦』にも優勝した(パートナーは川田)。また、トップグループ入りする前には仲野信市とのコンビでアジア・タッグ王者にもなるなど、全日本のジュニア・ヘビー級以外のタイトルをすべて手中に収めた。

プロレスリング・ノアの社長を引き受けた理由

第二の人生で成功を収めた田上。次の“土壇場”がやってくるのは、2013年12月の現役引退後から3年後のことだ。09年6月の初代社長・三沢の急逝に伴って、プロレスリング・ノアの第2代社長に就任したが、16年11月に経営不振から株式会社プロレスリング・ノアの事業をエストビー株式会社に譲渡したのである。

ノアに所属するレスラー、従業員はすべてエストビー社に移籍して、同社はノア・グローバルエンタテインメント株式会社に社名変更。代表取締役の田上だけになった株式会社プロレスリング・ノアは、株式会社ピーアルエヌに社名変更、翌17年2月1日に東京地裁から破産手続き開始決定を受けた。

つまり、ノアを存続させるために田上が負債4億円を背負い、自己破産せざるを得なくなってしまったのである。実際、ノアは田上が社長に就任する時点で、すでに2億円の赤字を抱えていて、田上以外に引き受ける人間がいなかった。

家も車もすべて売却して全てを失った田上は、配送会社の仕分けのアルバイトをやり、ステーキハウス『ミスター・デンジャー』を経営する後輩レスラーの松永光弘に肉の下処理を教わり、清美夫人が居酒屋をやっていた場所で、ステーキ居酒屋『チャンプ』を始めた。しかし、その矢先の18年4月には胃がんによって胃を全摘出する手術も受けた。まさに土壇場だ。

「大株主の三沢の奥さんに“やってほしい”と言われたのと、丸藤(正道)とか森嶋(猛)、杉浦(貴)とかの若いヤツらが“お願いします”って来てさ、そこで“イヤだ!”と断って、そのままノアに残っていたら肩身が狭いじゃない」

田上はノア社長を引き受けた理由をこう語るが、田上が引き受けなければノアは存続できなかったというのが本当のところだ。

「でも、社長と選手の二足の草鞋というのは俺には向いていなかったな、俺、頭わりぃから(笑)。いや、俺だけじゃなくて三沢も向かなかったよ。馬場さんや猪木さんは別として、レスラーが社長をやるのは無理があるよ。

馬場さん、猪木さんの時代にはテレビ局が付いていて、その放映権料で回せたからね。億の金が入るんだから。とにかく、選手や社員は何も問題ないようにして、責任は俺が全部取った。“もう、しょうがないな”っていうのが正直な気持ちだったよ」

▲お店の看板の前でポーズをとってくれた

今年62歳になった田上だが、還暦目前の破産、大病という土壇場の連続について聞いても、妙に深刻にならないのが田上の人柄と言うべきか。

「最初は胃潰瘍で、不整脈の関係で血液がサラサラになる薬を飲んでいたから、大量出血して血圧が下がって危篤状態。血を止めなきゃいけないから、麻酔もなしに口から内視鏡か何かわからんけど、突っ込まれて手術して、あれはキツかったね。

二度とやりたくない。それが終わってからガンの手術だから。お医者さんに“ガンです”って軽く言われちゃって(笑)。1か月ぐらい入院したのかな。それだけ寝ていると歩けなくなる。最初、歩く練習だもん。まあ、ようやく店を始めた矢先にガンになって、ガーンだったね(苦笑)」

今年の10月に田上は自伝『飄々と堂々と』(竹書房)を上梓した。ここで話しているように波乱の人生を暴露本的な形ではなく、人柄を感じさせる文体で綴ったことで「さすが田上!」「これぞ男!」と評判になっている。

「最近、取材されることが多くて“幸せそうですね”って言われるけど……普通に生活しているって実感があるのは、この1年ぐらいかな。絶望しなかったかって? 今、絶望しそうだよ、腰が痛くて(笑)。

酔っぱらった後輩レスラーの浅子覚に乗っかられて圧迫骨折しちゃってさ、治ってくれねぇんだよ。どうすれば土壇場を乗り切れるか? あんまりね、昔のよかった頃のことを考えない、ガックリくるから(笑)。今の生活を一生懸命やるしかないんだから。いろいろ深く考えないで飄々と堂々と……って、俺の本の宣伝になっちゃうね(笑)」

▲本を出したから取材されることが多くなったね

気負わず、執着せず、比較せず、何があっても動じずに堂々としている。まさに“飄々と堂々と”という田上流の生き方は、困難を克服する秘訣かもしれない。

(取材:小佐野景浩)


プロフィール
 
田上 明(たうえ・あきら)
1961年5月8日生まれ。埼玉県秩父市出身。三沢光晴・川田利明・小橋建太とともに1990年代の全日本プロレス平成黄金期を牽引したプロレス四天王の一角として活躍。プロレスリング・ノアへの移籍、社長就任、ノアの負債を背負って全財産没収などを経て、現在は、茨城県つくば市で妻とともにステーキ居酒屋『チャンプ』を経営。2023年10月11日に自伝『飄々と堂々と』(竹書房)を出版した。X(旧Twitter):@steakchanp