2022年2月から今も続くロシアとウクライナの戦争。これから厳しい冬の時期になるが終結の兆しは見えていない。ところで、第二次世界大戦前後、1953年に北極圏で起こったノリリスク蜂起をご存じでしょうか? ウクライナ研究の第一人者とされる岡部芳彦氏が、10年以上前にキーウを訪れた際に知らされたウクライナ人と日本人の歴史を紹介します。

※本記事は、岡部芳彦:著『本当のウクライナ -訪問35回以上、指導者たちと直接会ってわかったこと-』(ワニブックスPLUS新書:刊)より一部を抜粋編集したものです。

収容所でウクライナ人と日本人が共に闘った記憶

10年以上前、キーウの国境警備隊博物館から招待され、退役軍人を中心に僕の歓迎会が催されたときのことです。乾杯の際に「我々ウクライナ人と日本人は、シベリアの収容所でソ連当局に対して共に闘った同志だ」との挨拶がありました。帰国後、調べてもわからなかったのですが、最近になって史料を発見し、1953年のノリリスク蜂起のことだと知りました。

1953年3月5日、スターリンが死去し、秘密警察の長官であったベリアによって一時期、改革路線がとられますが、政治犯に対しては変化がなく、100万人を超える囚人がグラーグ(矯正収容所)に残りました。

政治犯の70%以上がウクライナ人と言われており、その多くは独立運動に関わったウクライナ蜂起軍UPA、ウクライナ民族主義者組織の関係者でした。同年5月にウクライナ人政治犯を中心に、北極圏にある都市ノリリスクで大蜂起が起こります。「自由か死か」をスローガンに掲げ激しく抵抗を続けましたが、8月に武力鎮圧されました。

ノリリスクには、少なくとも100名を超える日本人が長期抑留されており、そのなかには数名の女性も含まれていました。日本人抑留者たちは、日ごろからウクライナ人とロシア人の関係を観察し理解していました。

樺太鉄道局豊原管理部長だった草野虎一は「ウクライナ人とロ助(ロシア人)とは非常に仲が悪い。吾々日本人から見れば、ウクライナ人もロ助だと思って居たが、彼等はロ助ではないと主張」し、「彼等は今同志がアメリカに渡って、独立運動を展開して居るから、独立も間近かだ」と聞きました。

樺太特務機関員であった南部吉正は「グワントンスカヤ・アールミヤ(関東軍)が、ドイツが対ソ戦を始めた時、東から攻撃していれば、敗けることはなかったのだ」とウクライナ人の作業班長から聞かされました。

ウクライナ人収容者ヴァシリ・ニコリシンによれば、ノリリスク蜂起で日本人抑留者は、ウクライナ人とともに闘ったそうです。彼は次のように述べています。

〈私は、我々ウクライナ人が他の民族や国々の代表者と持つ友情や連帯感について、少し温かい言葉を述べたいと思います。(中略) あるエピソードの一例を紹介しますが、それは私にとって非常に印象深いものです。

(中略) 蜂起の真っ只中、日本人の大佐が私のところに来て「私たちはどうすればいいのか?」と聞いてきました。私は彼に、ここは死の匂いがするから、この問題に関与しないようにと提案し、収容所から出ていけるように回廊を作ると言いました。そうすると、彼は「私、考える」と言って去っていきました。

しばらくすると、彼は私のところに来て「ヴァシャさん、私たちはあなたが公正で正直な人だと思っている。私たちもあなたたちと一緒に死ぬということを言うために来た」と言いました。

正直なところ、この危機的な状況、緊張感、厳しさにもかかわらず、私は涙が止まりませんでした。日本人側が自らこのような行動に出るとは思ってもいなかったからです。もちろん、私は彼らの連帯に感謝し、彼らに守るべき場所を割り当てました。そして、彼らが最後まで名誉を持って任務を果たしたと言わなければなりません。

戦いのあと、皆さんのご存じのとおり、私たちは敗北しました。日本人の運命がどうなったかは知りませんが、私はこのエピソードを一生忘れないでしょう〉

ソ連の圧政の象徴であり、最も過酷な環境であったノリリスクの収容所で、ウクライナ人と日本人が出会い、共に生きた事実は、ニコリシンが「一生忘れない」と言ったように、日宇両国民の記憶にもっと留められてもいいのではないでしょうか。

▲現在のノリリスク 写真:noblogcamera / PIXTA

また、シベリアの矯正収容所で同じくウクライナ人による蜂起を目撃した黒澤嘉幸という人物は、1991年12月にソ連崩壊の報に接したときの心境を、次のように吐露しています。

〈囚人仲間であったウクライナの親父の顔が浮かぶ。彼は言っていた。「独ソ戦が始まって、ドイツ軍がやって来た時、祖国ウクライナの旗を押し入れの奥深いところから、引きずり出して“祖国解放万歳”を叫んだ。が、再び、ソ連の支配下になった。ウクライナの旗は、また、しまい込まれてしまった。しかし、いつか、その独立の日に……」

半世紀の歳月の間、ウクライナの人々は、ソ連官憲の目を恐れながらも、祖国の旗をわが家に隠し続けていることを教えられた。《祖国を愛する》ということは、こういうことだ、今ごろ、しまい込んだままのその旗を掲げているだろう。高々と祖国の旗を……〉

僕は、ちょうどソ連崩壊直後のウクライナを訪れました。同じような時期に、40年あまりの時を経て、日本人抑留者が、ウクライナ人の「仲間」を思い出していたことを知って、驚くとともに涙が出そうになりました。

ソ連崩壊という歴史的出来事を、ウクライナ人と日本人が遠く離れたウクライナと日本、それぞれの地で同じ思いで眺めていたかもしれないからです。