根津にあった「四六見世(しろくみせ)」
ツツジの名所として名高い、東京都文京区根津一丁目の根津神社は、江戸時代は根津権現と称された。
この根津権現の門前に、「根津」と呼ばれる岡場所があった。
図1は、標題に「根津門前倡家総図」とある。倡家(しょうか)は、女郎屋のこと。つまり、根津の女郎屋地図である。
『岡場遊廓考』(石塚豊芥子:著)は、根津について――
当時岡場第一の遊廓なり
と評している。
「当時」は、天保九年(1838年)である。そのころ、江戸でも第一の岡場所だった。
根津は、揚代が昼間六百文、夜は四百文の、四六見世と呼ばれる女郎屋が多かった。
また、根津は大工など、職人の客が多かった。
戯作『根津見子楼茂』(天明二年)に、根津の雰囲気が描かれている。要約して紹介しよう。
夕方、大工ふたり、材木屋の番頭の三人が、一杯機嫌で歩いていた。上棟式に出席して酒を振舞われ、祝儀までもらって、帰るところである。
兄貴分の大工が番頭をさそう。
「なんと、根津くらわせようじゃあねえか。番頭、気はねえか」
上棟式で、兄貴分は金二分、弟分と番頭はそれぞれ金一分の祝儀をもらっていたのだ。
番頭も付き合うことを了承する。
「茶屋付きでいくべいなあ」
兄貴分が言った。
気が大きくなっているから、まず池之端七軒町の茶屋にあがった。茶屋の案内で女郎屋に繰り出そうという算段である。
その後、提灯をさげた茶屋の若い者に案内され、女郎屋に向かう。
暖簾をくぐって中に入ると、陰見世があり遊女が並んで座っていた。
三人は土間に立って遊女を見立て、それぞれ相手を決めた。
二階座敷でまずは酒宴、その後、それぞれ遊女と床入りとなる。
根津の遊び方がわかろう。