根津から男の遊び場が消えた理由
図2は、根津の遊女である。
天保の改革にともない、天保十三年(1842年)八月に、根津の岡場所は取り払われた。
その後、慶応四年(明治元年/1868年)に、あらたに根津遊廓として再出発した。
図3は、明治の根津遊廓で、髪を引っ張られているのは、清(中国)人。清の男は弁髪という、独特の髪形をしていた。
ところが、根津からほど近い本郷に東京帝国大学ができたことから、学生の風紀に悪影響を及ぼすとして、遊廓の移転が命じられた。
明治二十一年(1888年)、女郎屋はすべて洲崎(東京都江東区東陽一丁目)へ移った。
【用語解説】
・四六見世(しろくみせ)
遊女の揚代が、昼間は六百文、夜間は四百文の女郎屋。夜よりも昼の方が高いが、これは夜の客は酒宴などをして揚代以外にも金を落とすのに対し、昼間の客は性行為が終わるとすぐに帰り、支払うのは揚代だけだったからである。四六見世でも泊りはできたが、その際は揚代も高くなった。岡場所の女郎屋は、四六見世が主流だった。
・張見世(はりみせ)、陰見世(かげみせ)
吉原の妓楼は、通りに面して格子張りの座敷があり、ここに遊女が居並んで座っていた。これを張見世といった。張見世は吉原の格式の象徴でもあった。岡場所の女郎屋では、入口をはいった一画に遊女が居並んでいた。表の通りからは見えないので、これを陰見世といった。
・四六見世(しろくみせ)
遊女の揚代が、昼間は六百文、夜間は四百文の女郎屋。夜よりも昼の方が高いが、これは夜の客は酒宴などをして揚代以外にも金を落とすのに対し、昼間の客は性行為が終わるとすぐに帰り、支払うのは揚代だけだったからである。四六見世でも泊りはできたが、その際は揚代も高くなった。岡場所の女郎屋は、四六見世が主流だった。
・張見世(はりみせ)、陰見世(かげみせ)
吉原の妓楼は、通りに面して格子張りの座敷があり、ここに遊女が居並んで座っていた。これを張見世といった。張見世は吉原の格式の象徴でもあった。岡場所の女郎屋では、入口をはいった一画に遊女が居並んでいた。表の通りからは見えないので、これを陰見世といった。
〇今に残る根津の痕跡
根津神社(表参道口)
神社の裏手に東大の野球グラウンドがある(編集部撮影)
根津神社入り口交差点
付近は、中小の飲食店や住宅が並ぶが、閑静な雰囲気(編集部撮影)