6月1日の後楽園大会、それは始まりの日
初めて叩きつけられた有刺鉄線は、やはり無茶苦茶痛かった。そしてボコボコに痛めつけられた末に、最後は自分がフォールを奪われての敗北。まあ、順当な結果である。
それでも、初めてのデスマッチにしては冷静だったし、少しは反撃することもできた。試合が終わった時には、我ながら思ったよりできたと思った。
試合を観ていた登坂部長も、同じことを感じたのだろう。試合後に「6月1日の後楽園でもデスマッチをやってくれるかな? その試合を伊東君の正式なデスマッチ・デビュー戦ということにしたいんだけど」と言われた。
もちろん答えは「大丈夫です」。ちなみにこの日のメインの試合結果は、デスマッチではなく時間無制限1本勝負と発表されていた。つまり、記録上はデスマッチではなかったことになったのだ。まあ、この程度の嘘は大目に見て頂きたい。
こうして“伊東竜二デスマッチ・デビュー戦”として、前述した6月1日の後楽園大会のカード、すなわちWX&伊東組対非道&gosaku組の、スクランブルバンクハウス・タッグデスマッチが発表される。
そして迎えた後楽園大会当日、入場時の歓声から自分のデスマッチ・デビューが、思ったよりも注目も期待もされていることを感じた。当時の大日本はデスマッチファイターの選手層が、現在よりもはるかに薄かったこともあって、大日本ファンにとって自分のデスマッチ・デビューは、喜ばしいことだったのだろう。
ただ、相手の非道選手もgosaku選手も元FMWで、デスマッチ経験も豊富な上にヘビー級の大型選手。対するこちらはパートナーが実力者のWXさんとはいえ、自分はこの試合がデスマッチ・デビュー戦(本当は1試合やっていたが)。
自分に向かって送られる「頑張れよ!」という声援には、「間違いなく負けるだろうけど……」というニュアンスも含まれていたと思う。そんな微妙な気配を感じ取った自分の中に、未経験の闘志が沸き上がってきた。
だったら全部ひっくり返してやる!
試合形式のスクランブルバンクハウス・デスマッチとは、リング内に置かれた公認凶器(この試合では有刺鉄線バット)の使用が許されるルール。もちろん有刺鉄線バットは自分が制作したものだ。
試合は選手全員がリング外に出た状態から始まり、リングアナのカウントダウンがゼロを告げると、所定の位置からリング内に走りこんで、公認凶器を奪い合うところから始まる。当然、先にリングに入った方が、公認凶器を手に入れて有利に試合を始めることができる。
ところがこの試合では、カウント中に非道選手とgosaku選手が、リングに向かってダッシュした。いわゆるフライングだ。
しかし、体重が軽い分だけ足は自分の方が速い。スタートは遅れたが、先にリングに飛び込んで有刺鉄線バットをゲットできた。しかし、すぐさま相手チームに反撃されてしまう。
初体験の強烈な衝撃に息が詰まる。それでも不思議なくらいに体は動いて、気持ちも折れなかった。
善戦空しく自分がフォールを奪われる――。
自分以外の誰もが予想していた、そんな面白くもなんともない結果に終わらせてたまるか! 無我夢中で動き続け、攻め続けた。そしてgosaku選手がコーナー近くでダウン。試合権利を持っていた自分は、WXさんにこう叫んだ。
「WX、バットをセットしろ!」
先輩を呼び捨てにした上に命令なんて、失礼な後輩もいたものだが、“さん”を付ける時間さえ惜しかった。残された力を振り絞ってコーナーに上がり、思い切り開脚しながら跳躍して、gosaku選手の上に落下。
記録はフライング・ボディープレスとなっているが、あれがデスマッチで初めて決めた、ドラゴンスプラッシュだった。
1、2、3!
デスマッチ・デビュー戦だった自分が、自らフォールを奪って勝者となった驚きに、後楽園ホールは大歓声に包まれる。自分の勝ち負けで会場があんなに沸いたのは、4年余りのプロレス人生で初めてのことだった。
その勢いでマイクを掴んだ自分は叫んだ。
「やりゃあできるんだよ! 蛍光灯でも画鋲でも何でもやってやるよ!」
試合後の興奮と勢いで出た言葉だったが、実際に何でもできると本気で思った。
こうして踏み出したデスマッチの第二歩目から、自分のプロレス人生は信じられないくらいに、急加速していくことになるのだった。